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平成の虚無僧一路の日記

多劫姫とは 

2021年02月11日 外部ブログ記事
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多劫姫(たけひめ、天文22年(1553年) - 元和4年(1618年))は、久松俊勝の娘。                                       
母は於大の方で、松平広忠に嫁ぎ竹千代(後の徳川家康)を生んだが、離縁させられて
久松俊勝に再嫁した。つまり、多劫姫は家康の異父妹となる。
多劫姫は、最初、桜井松平家の松平忠正の室となり、家広を生んだが、まもなく忠正が亡くなったため、
忠正の弟の松平忠吉と再婚し、信吉と忠頼の二人の子をもうける。
桜井松平家は、三河一向一揆では家康に敵対し、後、許されて家康に属するが、代々短命で、忠正の後は弟の忠吉が、忠吉の後は家広、その後は忠頼が継ぐが、忠頼も27歳で旗本の喧嘩の仲裁にはいって殺される。実は我が家の先祖は、この松平忠頼の家臣だったが、忠頼の落命でお家断絶。一時浪人となっていた。
さて、多劫姫は、忠吉の死後、保科正直の室となるのである。
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なぜ、信州の国人保科正直に嫁いだのか、疑問に思っていた。
すると、名古屋市の東、安城市に「保科屋敷」跡があることを知って、謎が解けた。
保科正直は信州高遠の国人で武田に臣従していた。信長の武田攻めで高遠を追われ、弟の正俊(武田重臣の内藤家に養子となっていた)を頼って、群馬に逃れる。まもなく武田勝頼が滅びると、小田原北条氏の後ろ盾で高遠を奪還する。
しかし、その後、信州は家康が支配するところとなり、家康に臣従したため、北条方に人質として置いてきた妻(跡部氏の女)は殺されたという。長男の「正光」は、武田勝頼の下に人質として置かれていたが、井深氏(ソニーの井深大氏の祖)によって救出され、高遠に戻った。
さて、武田滅亡後の信州は大混乱に陥り、保科正直と正光父子は家康を頼って三河安城に来ていたのである。家康は、妻(跡部氏娘)を殺された保科正直を哀れんで、多劫姫と再婚させたのであった。
そして、太閤秀吉の小田原北条攻めには、保科正直・正光父子は家康に従って関東に赴く。正直としては妻を、正光にとっては母を殺された恨みもあったろう。
小田原北条の当主「氏直」の室は家康の娘「督姫」である。氏直は家康の嘆願により死を減ぜられ高野山に幽閉される。小田原は無血開城したが、関東一円の城は北条方であり、忍城(現埼玉県行田市)などは、最後まで抵抗して戦った。
そのひとつに房総(現千葉県山武市)に山室城があった。私の母方の祖である。
その山室一族は「保科正直・正光」父子に攻められて滅ぼされた。
当主以下多くが討ち死にしたが、家康は北条方の残党に対しても寛大であった。
一族の「山室丹後守」は、この時、保科正光に仕える。保科正直・正光はその後10年間、房総の多古一万石の城主となっていたのである。
そして、1600年の関が原の時、東軍について浜松城を守り、その功で旧領の高遠に2万5千石で戻るのであった。
そして私の母方の祖は、信州高遠に行くのであった。その後会津へ・・・
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