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平成の虚無僧一路の日記

会津藩祖保科正之と見性院(詳細) 

2021年02月10日 外部ブログ記事
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武田信玄の次女で穴山梅雪夫人「見性院」は、家康により、江戸城 田安門 内の北の丸、比丘尼屋敷に住居を与えられ、武蔵国 大牧(おおまき)村(さいたま市緑区)に3百石を与えられていた。さて、徳川2代将軍秀忠は、信長の妹お市の娘で年上の正室「お江」に頭が上がらぬ恐妻家だった。それが、乳母の下女に手をつけ、懐妊させてしまう。その下女の名は「志津(静)」。父は、神尾栄加といい、北条氏直の家臣であった。氏直は小田原北条氏の最後の当主。母は武田信玄の娘「黄梅院」。天正10年6月4日の本能寺の変後、信濃・甲斐の領有をめぐって家康と対峙し、8月、家康の娘「督(ごう)」を妻に迎えることで和睦する。それから8年後の天正18年。北条氏は秀吉に攻められて滅亡する。ところが、「氏直」は 家康の娘婿であったため、命を助けられ、高野山に幽閉されるが、3年後に亡くなる。北条氏の後、秀吉の命で関東に移封してきたのが、家康である。秀吉としては、北条の残党が7万人も残る関東の支配は至難であり、家康の自滅をもくろんだのであろうが、家康は、よく彼らを懐柔した。帰農もせず、商人にもなれず、尺八しか能の無い者が虚無僧として生きることをも許したのである。そんな事情であるから、北条の遺臣の娘が、2代将軍秀忠の乳母の下女として奉公していたのもうなづける。志津は天正12年(1584)小田原で生れた。天正18年(1590)北条氏の敗北で、父は浪人し、一家で江戸に出てきた。志津は将軍秀忠の乳母「大乳母(おうば)殿」の下女として働いていたところ、秀忠の眼にとまり、寵愛を受け懐妊した。将軍秀忠の御台所「お江の方」の目を怖れて、志津は、神田白銀町の姉婿 竹村助兵衛次俊方に身を寄せた。そして、信玄の六女「信松尼」に保護されるようになった。その経緯は不明である。慶長16年5月7日(1611)、無事に男児を出産。翌日竹村助兵衛は南町奉行に届け出、奉行所から老中土井利勝に伝えられた。翌朝利勝は秀忠に報告、秀忠は「幸松」と名づけ、葵の紋服を 利勝に手渡し「穏便に養育するように」言ったという。幸松は 竹村助兵衛の家で育てられたが、「お江の方」が 詮索しているという噂が流れた。志津は「大乳母殿」に訴え、「大乳母殿」は 土井利勝に相談した。 慶長18年3月1日(1613)、老中土井利勝と本多正信が比丘尼屋敷の「見性院」を訪ね、幸松の養育を依頼した。翌3月2日、見性院は 家来の有泉重治と野崎太左衛門を迎えに遣わし、志津と「幸松」を 江戸城北の丸の比丘尼屋敷に連れてきた。「お江の方」は幸松が見性院に預けられたのを知り、使いを送って責めた。見性院は「預かっているのではない、養子に頂いたのだ」とはねつけた。見性院は「幸松君」を養子にして武田家の再興を考えていたのかも知れない。見性院の許で育てられた幸松は、元和3年11月8日(1617)母志津、万沢権九郎、野崎太左衛門、神尾左門(志津の甥)、有泉金弥、それに女中4人と比丘尼屋敷を出、信州高遠城に移り、保科正光の養子となった。保科氏は信州の名家で、保科正俊は 高遠頼継に従っていたが、後 武田信玄に従い、さらに正俊の子の「正直」は 織田信長に従った。保科正直は 「本能寺の変」で旧武田領内を支配していた信長の家臣達が支配者を失って騒然としている混乱に乗じて、高遠を占拠して、家康に臣従を誓い 所領安堵された。正直の子が「保科正光」である。「幸松」を 保科正光の所にやったのは、見性院と保科正光が親しかったためで、見性院は老中土井利勝に相談、秀忠の内聞を得て決定した。幸松が高遠に入った翌年、幸松の養育費として 信州筑摩郡洗馬郷(塩尻市周辺)5千石が 加増となり、高遠藩は 3万石となった。「幸松」は寛永6年6月24日(1629)18歳の時、正光に従って江戸に出府し、前将軍秀忠に初めてお目見えしたが、父子の名乗りは なかった。秀忠は 正室「お江」の手前、死ぬまで 幸松を実子であるとは 公的には認めなかった。NHK大河ドラマ「お江」では、この時、お江とも会ったことにしている。寛永8年10月7日(1631)、保科正光が亡くなり、「幸松」が高遠藩3万石を継ぐこととなり、元服して名を「正之」と改めた。寛永13年7月21日(1636)、保科正之は 出羽国最上(山形市)20万石に転封になり、7年後の寛永20年7月4日(1643)には 会津23万石に転封になった。保科正光には、実は、幸松の前に、すでに一人養子を入れていた。自分の弟「保科正貞」である。正貞の母は家康の異父妹「多劫姫」。将軍の落胤である「幸松」が入ってきたため、「正貞」は、元和8年(1622)正光の許を去り、母方の叔父である伊勢長嶋の松平定勝に寄食していた。寛永14年(1637)、将軍家光の意向により、保科正之の所有していた保科家伝来の重宝は、すべて正貞に譲られた。このことは保科家の名跡は正貞が継ぐということを意味していた。正貞は慶安元年(1648)、1万7千石の大名として取り立てられ、上総飯野藩保科家が創設された。この飯野藩が、保科の正当嫡流となり、幕末まで、会津藩と いろいろ関係が続くのである。3代将軍となった家光は、公式には名乗らなかったが「保科正之」を、弟として遇し、重用した。慶安4年4月22日(1651)、家光は最期の時に 正之を呼び、「大納言(家綱)は幼少ゆえ、くれぐれも後のことを頼むぞ」と,後事を託したという。見性院は、幸松を手放して5年後の元和8年5月9日(1622)、田安の比丘尼屋敷で亡くなった。79歳という。

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