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平成の虚無僧一路の日記

信康と築山殿は信長が殺せと命じたのか 

2021年02月02日 外部ブログ記事
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NHK大河ドラマ『麒麟がくる』では、家康が信長の命によって、長男信康と正室築山殿を殺したことになっている。家康はそのことで信長に恨みを抱いていたと。一般にもそのように言われてきたが、どうやら事実は違うようだ。
結論からいえば、信長は殺せとは命じていない。処置は家康に任せるとのことで、家康自身の判断で二人を殺害した。
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家康の正室瀬名?は、関口氏の娘で母は今川義元の妹?。家康が駿府の今川義元の下に人質となっていた時に結婚した。
ところが、永禄3年(1560年)桶狭間の戦いで、今川義元が討たれ、元康(のちの家康)は松平の本城岡崎に帰還することとなった。永禄5年(1562年)家康が織田信長と同盟を結んだ事で今川氏真の怒りを買い、瀬名の父母は共に自害した。
瀬名は、石川数正の尽力で、駿府から長男信康と亀姫を連れて岡崎に移った。しかし、瀬名は岡崎城内には入れられず、城外の築山に居住させられた。家康としては信長の手前、今川の血筋の正室とは離縁せざるを得なかったであろう。つまり瀬名は幽閉状態で、その場所が「築山」なので「築山殿」と呼ばれた。
永禄10年(1567年)息子の信康と織田信長の長女・徳姫(五徳)が9歳同士で結婚する。
元亀元年(1570年)家康は浜松に移り、信康が嫡子として岡崎城主となった際に、その生母として岡崎城に入る。
つまり、今川義元の血筋の築山殿と信長の娘徳姫が同居することになった。これでは、嫁姑以上の険悪な関係になることは目に見えていた。
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信康との間には女児が二人生まれたが、男児が生まれぬことで築山殿は、旧武田の家臣の娘を信康の側室にあてがったことなどから徳姫と信康の関係は冷え切ってきた。
信長も娘の徳姫を案じて、鷹狩りと称して岡崎を訪れている。これは大河ドラマ『麒麟がくる』でも語られていた。「その時の徳川の家臣たちの自分に向ける眼差しが険しかった」と信長が語るが、その記録はない。
その後 徳姫は家臣の酒井忠次に「12カ条の手紙」を託し、信長に届けさせる。
その手紙には「夫・信康とは不仲である」「夫信康はささいなことで家臣や僧侶を殺し、暴君である」「築山殿は従医と不義密通している」「築山殿は武田勝頼と内通している」などと書かれていた。
その内容を 信長は酒井忠次に問いただしたが、酒井は否定はしなかった。そこで信長は、酒井に「家康殿の処分に任せる」とは云ったが、「殺せ」とは命じてはいなかった。
そして、家康は築山殿と信康が武田と内通し謀反を企てていると判断し、二人を殺すことにした。
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