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太平洋戦争末期の昭和20年4月5日、巨大戦艦大和の乗組員の多くの命が奪われ、生き残った人たちも苦難の戦後を生きました。 

2021年01月03日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

   辛い、胸衝かれる思いで、見ました。
 昨日のNHKeテレ

NHK戦争証言アーカイブス
巨大戦艦大和 乗組員たちが見た生と死 です。
https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/bangumi/movie.cgi?das_id=D0001230007_00000


日本海軍が建造した世界最大の戦艦、大和。
全長263メートル、世界最大の46センチ砲は、
   1発で戦艦1隻を沈める威力があるとされていました。

太平洋戦争末期の昭和20年4月5日、
大和の広大な甲板は乗組員たちで埋め尽くされていました。
これまでにない特別な命令が下ったのです。
「海上特攻隊」として沖縄に突入せよ。」
それは、
生きて再び帰ることを望んではならない作戦でした。

この時、
沖縄は激しい攻撃にさらされていました。
アメリカ軍は沖縄を日本本土攻略の拠点とするため、
     50万の兵力を動員、
   2000隻の艦船で包囲します。
大和を主力とする海上特攻部隊は、
  最後は浅瀬に乗り上げてでも、
    砲撃を続けるよう求められたのです。

4月6日に出撃した大和は、
翌7日、
鹿児島県の沖合でアメリカ軍艦載機の激しい攻撃を受けました。

     低く厚い雲を利用して、
航空機が次々と大和の懐へ飛び込んできたのです。
そして、
大和は大きく傾き、沈没しました。
この時、
乗り組んでいた3332人の9割以上が
    船と運命をともにしました。 
そして、
生き残った乗組員も、
「なぜ、自分は生き残ったのか」と
    答えの出ない問いかけを続け、
      長い戦後を生きてきました。

昭和20年の4月5日、と言えば、
     私は2歳の赤子でした。
    もう少し早く生まれていれば
     私も、お国の為に
      命を、散らしていたかも知れません。
    為政者の誤った政策で、
      死に追い詰められた若者たち。
     こんな悲劇を繰り返さない為にも、  
      私は、この凄惨な事実を目撃していませんが
       この戦争アーカイブスをupして、
        学びたいです。m(__)m




※ なお、このブログで、
戦後目撃した
   昭和18年生まれの私の記述です。
     お役に立てれば、とupします。
     ぜひ、クリックをお願いします。m(__)m
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