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平成の虚無僧一路の日記

「風葬の城」会津 

2011年08月22日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



「大内宿」から会津までは 30km。バイパスが整備され、
意外と早く会津盆地が見えてきた。

内田康夫の『風葬の城』は、会津が舞台。内田康夫は、
4日間、会津を旅しただけで、会津人の気質、観光地を
すべて把握し、この推理小説を書いた。その構成力には
感心する。

登場する女性は、勤務地は会津だが、家は「大内村」と
なっている。当時の感覚では、「大内村」から会津まで
毎日通勤するのは無理な話だった。そんなことおかまい
なしに設定することに感心するのだ。テレビドラマにも
なった。大内村はシチュエーションとして最高だ。

だが、美人OLの住まいが「藁葺き屋根の純農家」という
のは、会津人としては“気恥ずかしい”。あれを見た人は
「東北は、貧しい未開の地」と思われたことだろう。

「風葬の城」とは、戊辰戦争で戦死した遺体は埋葬される
ことを許されず、野ざらしにされたことからの「題」だ。

大内宿から会津に行く道路沿いにも「戦死者の碑」があった。
今回の私の旅も、戦死した先祖の慰霊の旅。

「大内こぶしライン」という新道を走っていたら「美里町」の
標識。「美里町」は「会津本郷」や「会津高田」などが
町村合併してできた新名。そんなこと“知んめい”私。

どうも旧名でないと方向が判らない。まもなく、見覚えの
ある墓地。なんと我家の墓地ではないか。墓地のすぐ脇を
新道ができていたのだ。もうビックリである。

墓参りをして、墓誌をチェックする。ここは、明治以降、
私の曽祖父の代からの人が眠っている。江戸時代以前の
墓は、会津盆地の東「大窪山」にある。

盆地の東側の「小田山」から「青木山」「大窪山」一帯は、
江戸時代の初め、保科正之入封の時から「会津藩士の墓地」と
定められ、何千という墓が、山の中にあるのだ。しっかり
子孫によって整備されている墓もあるが、多くは 子孫も絶え、
草木に覆われ 荒れ果てている。

私の家の先祖の墓も、子供の頃、伯父に連れられて墓参りに
来。その後、二度ほど訪れているのだが、藪に覆われて、
見つけることができなかった。今回、山中を駆け巡り、
30分ほどして ようやく見つけた。

そして、猪苗代方面に行き、強清水にある「牧原奇平」の
墓に詣でる。「牧原奇平」は、すでにだったが、「官軍迫る」の
報に、白虎隊たちとともに戸の口原に向かった。会津藩兵は、
日光、越後方面に出払っていて、城下には正規軍は居なかった
のだ。牧原奇平は、僧侶や相撲取りを狩り集めて出陣した。

しかし、鉄砲の扱いも刀も握ったことの無い兵だから、
官軍の大砲の音に、一目散に逃げてしまった。牧原奇平は、
戸の口を防ぎきれなかった責任をとって、その場で割腹して
果てた。

遺骸は、野ざらしにされていたのを、村人が街道脇に埋葬して
くれていた。それが判ったのが、50年前、私が中学の時だった。

墓に名前は無かった。他の戦死者と合葬して、「十二人墓」
としか記されていないのだが、村の古老の言い伝えで
「牧原奇平」他が埋葬されているとのことだった。

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