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赤旗編集局中祖寅一政治部長の御尊父昭規様のご葬儀に参列しました 

2020年10月07日 外部ブログ記事
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元日本共産党新宿区地区委員長中祖昭規様(赤旗編集局中祖寅一政治部長の御尊父)の通夜並びに告別式に参列してきました。妻は中祖昭規様と同じ、富士重工業(現・SUBARU)に勤務していましたので、1970年に管理人を紹介し、仲立ちをしてくれた事実上の仲人でした。
中祖昭規様のご冥福を心からお祈り申し上げます 合掌


?お礼        喪主・中祖寅一

 本日は、父、中祖昭規のお別れの会にご参会いただき、本当にありがとうございます。 父は、間質性肺炎と春に見つかった肺の腫瘍による喀血で、6月以降2度目の入院中でした。9月19日に喀血による窒息で危篤を告げられ、私は入院先の王子生協病院に急行しました。壮絶な状況が続きましたが、10日間の付き添いの甲斐もあってか28日には 一時持ち直し、付き添いも打ち切りになりました。しかし10月1日に再び肺炎が悪化。 二度目の呼び出しを受け、妻の真己子と駆け付けました。呼吸が落ち着いているのを見ていったん病院近くの自宅マンションに戻りましたが、午前3時に再び電話が鳴りました。二人でベッドを挟み父の手を握り語りかけました。最後はロの中を湿らせた水分をグイと飲み込み、薄く開いていた目をグッと閉じ、静かに息を引き取りました。最後の最後は安らかだったことは救いです。コロナ禍で面会がかなわず、容態の悪化をはっきり知ることも、励ましの言葉をかけることもできなかった中で、最後の苦闘に10日間付き添えたことは、私にとっても父にとっても幸福でした。職場の配慮に感謝しています。最後の夜は、中秋の名月が特別に綺麗で、夜半に月を見上げたとき「母が連れていく」と直感しました。よく持ち直したものの消耗は激しく「もはやここまでか」と内心の覚悟がありました。 父は革命家でありました。その原点は、松川事件の被告救援闘争にあります。事件現場を作家の広津和郎さんと何十回も歩いたと語り、権力による日本共産党への謀略的弾圧事件に対し、真実を求める広範な国民の良心を集めて完全勝利した、戦後民主主義における 金字塔だと語っていました。松川闘争の勝利の後、富士重工労組を経て、日本共産党の専 従の道に進みました。強大な党づくりと幅広い人々を結集する統一戦線運動の発展が、たたかいの要だといつも語っていました。「大いなる展望、着実な前進」が信条でした。 定年で都委員会をスパッと退職し「自分を助けた妻を助ける番」といって母の介護を1 1年。同時に地元北区で草の根運動の先頭に立ってきました。母の死後は病気と怪我の連続でしたが、弱音を吐かず毅然としてコツコツと取り組みを続け、心優しく私たちを、また友人を見守りました。どんなに厳しい状況でも僕の仕事に対しては「行ってこい」というのが常でした。50年代から約70年に及ぶ革命的人生を全うしました。 死んだ母は「男性の真価はどういう女性を選ぶかに現れる」と語り、8歳年上で貧乏からたたき上げてきた自分を人生の伴侶に選び、尊重した父を心から尊敬していました。父もまた母のことを大変尊敬していました。その二人の共通点は、名声や評価を求めず、民衆の怒りと苦しみに寄り添い、ともに草の根でたたかうちっぽけな人間でいられるところにあったと思います。私は、父と母のように生きていきたいと思います。 今は、夜空に月と星を失った気持ちですが、父がそして母が、その世代の人々が切り開いてきたたたかいは、いま新しい地平に到達し夜明け前の暗さを表しているようでもあります。父の意志を受け継ぎ、悲しみを乗り越え立ち上がり、新しい政治の実現を目指すたたかいの一端を担い、力を尽くしていきたいと思います。本日はありがとうございました。
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中祖昭規 略歴(中祖家より配布)1933年1月2日 島根県大田市生まれ。1945年3月 朝鮮全羅南道秀陽小学校卒業。1951年3月 島根県立大田高校(新制)卒業。   4月 島根県立農大入学・同年末退学。1952年4月 早稲田大学第二法学部入学?経済的理由で夜間部を選択。1954年7月 日本共産党:入党早稲田大学細胞。1955年9月 党三井ビル集合細胞長。1956年11月 松川事件対策協議会事務局(その後事務局長を歴任)。?1961年8月8日 松川事件仙台高裁差戻審判決。  ? 10月1日田村百合子と結婚。1962年1月 富士重工業労働組合書記。  ? ? 8月3日 長男・寅一が誕生。1963年9月 最高裁上告棄却・全員無罪判決。  ? 10月 党富士重工本社細胞長。1967年6月 日本共産党新宿地区委員。1972年1月1日 党専従(新宿地区委員会)。1975年8月 新宿地区委員長(地区委員会ビルを建設)。1985年9月 衆院東京1区選対本部長。  ? 12月 東京都委員会常任委員(市民中小企業部長、統一戦線部長など歴任)。1997年2月東京都委員会退職。東京都委員会退職後、妻・百合子の介護に献身。地域の草の根運動に参加し97年から北区革新懇事務局長、北区九条の会事務局員など草の根で20年以上にわたり活動。2008年5月 中祖百合子死去。百合子の死後、心不全を発症し心臓カテーテル?ステント手術、また悪性リンパ腫・胃がん治療、持病の糖尿の悪化、視力低下などと闘病しながら活動を続ける。2016年7月、ビラ配り中に自転車で転倒し第三腰椎を粉砕骨折。手術と1年のリハ ビリを経て17年7月から自宅療養。間質性肺炎、糖尿など在宅で王子生協病院の訪問診療、地域ケアセンター・わかば、ほほえみヘルパーステーションの介護支援を受けながら生活。数次の入院を繰り返し2020年6月、北区堀船の見守り付き集合住宅に転居。転居後、間質性肺炎と肺の腫瘍による喀血で呼吸困難が悪化し2度の入院。9月19日に症状悪化。10月2日午前4時40分死去。趣味は囲碁と釣り、読書、藤沢周平が好き
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(了)
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