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75年前の8月9日ソ連軍の参戦と朝鮮半島軍事情勢の考察 

2020年08月10日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



ソ連軍参戦と朝鮮半島の軍事情勢について考えてみたいと思います。
内務大臣安倍源基は『昭和二十年八月六日、広島は恐るべき原子爆弾に見舞われて一瞬にして焦土化した。八日に至りソ連は、佐藤駐ソ大使に対して、九日から日本と戦争状態にはいる旨通告してきた。日ソ中立条約を一方的に破棄して侵略を開始したのであるが、共産国家ソ連の常套手段とはいえ、許すことのできない国際的不信行為であった。さらに広島につづいて長崎も第二の爆弾を受け、戦局はいよいよ最悪の事態に陥ったのである。』と述べているように「日ソ中立条約」違反だとする意見と、ナチス・ドイツがソ連に侵攻した機会に、政府と軍部が「北進」路線の軍事行動が「関東軍特殊演習」(関特演)だったので、事実上の日ソ中立条約違反という国際的批判もあります。(母は一回目の出征は中支と聞いているが二回目は知らないとと言っていました。亡父の二度目の応召は「関特演」だったので、出征時に戦地の満州を母には知らせず、帰還してからも軍の命令で秘匿していたのでしょう。)
「満州」から送られてきた写真(父34歳)

ソ連軍の千島列島侵攻は歯舞・色丹の返還が、解散・総選挙を狙う安倍総理を有利にするお手柄なのか?軍事史から見る千島問題をご参照ください。
スラヴィンスキー著「日ソ戦争への道」502頁にソ連軍朝鮮半島の動向が記述されています。

『連合国の首都で日本の降伏を受け入れる手続きが協議されていたとき、極東のソ連軍本部は、連合国との合意により、ソ連の管理下に移行すべき領土の占領に躍起になっていた。ワシレフスキー総司令官はザバィカル方面軍、第一および第二極東方面軍に対し次のような命令を下した。日本軍の抵抗が打ち砕かれ、惡路がわが軍主力の急速な前進を妨げていることに鑑み、長春、奉天、吉林、ハルビンの諸都市を速やかに占領するために、特別編成の装備良好の急進部隊を送らねばならない。これらの部隊が主力部隊から切り離されることを恐れずに、引き続く任務を解決するためにも、これらの部隊およびそれに類似した部隊を使用すること。 急進部隊は、戦車部隊、自動車輸送の狙撃兵部隊、自走砲兵部隊、牽引車に引かれた対戦車砲部隊から編成された。その任務は、満州と北朝鮮の奧に急進し、降伏した敵軍を武装解除し、敵軍占領地の解放を促進し、工場その他の重要施設の破壊や貴重物資の搬出を防止することであった。 このため満州や北朝鮮の中心地では広く空挺部隊を使用する決定を下さなければならなかった。例えば、8月19日、奉天には225人、長春には220人の空挺部隊が降下した。8月18日と19日には、第一極東方面軍がハルビンと吉林に空挺部隊を降下させた。8月22日には、旅順と大連に250人ずつの空挺部隊が降下した。空挺部隊に続いて、しばらくしてこれらの都市に軍の主力が入った。軍事行動の最初の段階で、第一極束方面軍と太平洋艦隊の努力により朝鮮半島の東海岸のいくつかの港が占領され た。即ち、8月11日と21日には雄基(ウンギ)と羅津(ナジン)、8月16日には清津(チョンジン)が占領された。日本軍の降伏の受け入れを促進し、重要施設の破壊をできるだけ防止するために、咸興(ハムフン)と平壌(ピョンヤン)に空挺部隊が降下した。8月末までに38度線までの北朝鮮は解放された。このとき日本兵は武器を置き、捕虜となった。  1945年8月23日、国防委員会は極秘命令第9898号を採択し、朝鮮と満州で赤軍によって捕虜とされたすベての日本人捕虜をソ連に送るよぅ命じた。L・P・ベリヤ本人が署名した別の命令によって、これらの捕虜たちはシベリアや極東のさまざまな経済建設現場、バイカルアムール鉄道の建設、木材の調達、鉱業石炭企業に配分された。こうしてソ連で約60万人の日本人が捕虜となった。彼らの罪は、日本の軍人であったこと、そして日本軍司令部の命令を実行したことであった。』
更に詳しい現地の軍事状況は、靖国神社偕行文庫室で見つけて複写した「朝鮮の状況報告」から「ソ軍進駐状況」を見ることにしたい。(手書きなので文字スキャンが不可なので画像を読んでください)全文は靖国神社偕行文庫室でコピーした「昭和二十年十一月 朝鮮の状況報告 朝鮮軍報導部長」

地図はインターネットから(出展不明)作図しました








訪中レポートI「天長節事件の尹奉吉梅軒祈念館」
上海尹奉吉梅軒祈念館にあった写真パネルに「1945年11月大韓民国臨時政府要人」と「1948年8月15日大韓民国臨時政府祝賀会」の写真がありましたが、大韓民国臨時政府は上海から重慶に移りました。8月9日朝鮮半島へソ連軍が侵攻と日本のポツダム宣言受諾という情勢の中で、大韓民国臨時政府が如何なる国際的な動きをしたのか、小生の知見では理解出来ません。

1943年11月22日、ルーズベルト、チャーチル、蒋介石が会談して出された「カイロ宣言」には「三大国は、朝鮮の人民の奴隷状態に留意し、やがて朝鮮を自由独立のものにする決意を有する。」と述べられています。
スラヴィンスキー著「日ソ戦争への道」419頁に「1945年5月12日、グルーは国防相と海軍省の幹部に公式の覚書を送った。このとき、国務省は、『ソ連が満州を中国の主権下に返還する部分および将来の朝鮮の地位に関する部分でカイロ宣言に「明白に、明確に」参加することも求められた。また、朝鮮の解放後、朝鮮に「米英中ソの後見」を確立することに同意するようにとの提案もなされた。覚書では、ソ連とのこの協定においては、「臨時朝鮮政府の選出権は、これらの四つの後見国に属する」点を明記することが強調されている。』ここで述べられている「米英中ソの後見」とは、1943年10月27日ルーズベルトは蒋介石をカイロに招待するとき、日本の敗戦後、国民政府を当てにしていた。そのために、いわゆる「四ヵ国の国際警察」即ち、国際連合の設立者のなかに中国を加えていたのである。(注)「チャーチルの提案でフランスが加わった、国際連合常任理事国である」
「スターリンとトルーマンーー日本の降伏問題の調整」の492頁に気になる記述があります。「既に米ソ間で合意に達した朝鮮の占領地域を三八度線に沿って分割する協定(略)」こんな協定があったのでしょうか。
「【米ソの朝鮮占領と南北分断の形成過程】李圭泰著 信山社出版株式会社1997年発行」などの関連文献によって、米国務省の官僚が考案した38度線だと思い込んでいました。日本平和委員会元会長畑田重夫氏の「北朝鮮軍・南朝鮮軍説」については反論してきましたが。
中国人戦争被害者の要求を支える会事務局長大谷猛夫さんから次のようなメールを頂きました。「今日、韓国でいわれている38度線が敷かれた経過は、韓国の高校の歴史教科書にはこう書かれています。『ソ連参戦にあわてた米軍が、1945年8月12日に、ソ連軍に対して、対日武装解除の分担を提案して、ソ連も了承したとされています。この時に敷かれたのが38度線で、武装解除の分担だったといえます。』ちなみに韓国では次のようにも言われています。??・・・・もし、日本軍がもっと早く降伏していたら、ソ連の参戦はなく、朝鮮半島はアメリカの占領下にはいり、分断はなかった。 ・・・・もし、日本軍の降伏がさらにおくれていたら、ソ連は朝鮮半島を占領し、朝鮮は全体として社会主義国になり、こちらも分断はなかった。1945年8月15日降伏という絶妙のタイミングが今日の分断の根源である。・・・・と。
「韓国併合」による日本帝国主義の朝鮮半島植民地化の過ちが根源にありますが、いまだに分断されている朝鮮半島の「38度線」問題はこれからも研究していきたいと考えています。
(了)
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