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「天声人語」の「終戦まぎわの7月24日」とは。 

2020年08月10日 外部ブログ記事
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(略)▼元徳山高専教授の工藤洋三さん(70)らは、公開された米機密文書をもとに投が決まる過程を調べた。終戦の年の4月時点では東京、横浜、京都、大阪、下関など実に17もの都市名が浮上していた。(略)機密文書をたどると、長崎が標的に加えられたのは終戦まぎわの7月24日だった。そうした候補地の変遷を追えば追うほど深い無力感に襲われる。戦況の定まったあの時期、あれほど非人道的な新型兵器を使う必要があったか。二転三転ならぬ四転五転の果てに、まるで恣意的に選ばれた被爆地の無念を思う▼きょうは長崎原爆の日。一瞬で失われた幾万もの尊い命を悼みつつ、戦争そのものの持つおぞましさをもう一度胸に刻みたい。

「終戦まぎわの7月24日」とは。
ポツダムでトルーマン米大統領、チャーチル英首相、スターリンソ連首相が会談をした直前の7月16日、ついにアラモゴード空軍基地に近いニューメキシコ州の砂漠で最初の原子爆弾の爆発実験が行われました。『会談中の7月24日、マーシャル元帥、スチムソン国防長官、トルーマン大統領は、米軍参謀本部の作成した命令を承認した。その命令は、戦略空軍司令官スパーツ将軍に対して日本を原爆攻撃させよ、というものである。そこにはこう記されている。「第20航空軍の第509航空団は、1945年8月3日以降、天候が視力による爆弾投下を許すやいなや、最初の特殊爆弾を広島、小倉、新潟、長崎という目標のひとつに輸送すること」』(日ソ戦争への道451頁)
筆者は、「戦況の定まったあの時期」と書かれていますが、とんでもありません。時の天皇裕仁も政府も大本営も「戦況」が好転することに一抹の期待をし、無責任極まりがなかったのです。「天皇裕仁」の戦争責任については稿を改めて記述します。
(了)

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