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川柳作家鶴彬「軍神の像の真下の失業者」 

2020年08月09日 外部ブログ記事
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8月6日付朝日新聞に『倒される「銅像」とは』に、奴隷制や人種差別に関わる人物の銅像を引き倒し、撤去しろーーそんな動きが米国に、そして欧州に広がっている。正当な怒りなのか、歴史の抹消なのか。なぜ「銅像」が問題になるのか。《耕論》に三人の識者のインタビュー記事がありました。
美術史家木下直之氏は「(略)実在の人物像は顕彰像ですから、その人物の評価が変われば、撤去されてもいい。しかし、一時的な熱狂にかられて引き倒すのは短絡的です。撤去の前に、銅像がなぜその場所に建てられたのかを精査し、そこにあり続ける意義を議論すべきです。(略)日本では、1890年代からわずか半世紀の間に、各地に政治家、軍人、実業家など数多くの銅像が建てられましたが、大半は戦時中の金属供によって姿を消しました。戦後には連合国軍総司令部(GHQ)の意を受けて、人などの銅像が撤去されます。どちらも上からの命令によるものでした。その人物の功罪を問い、撤去するという経験を、日本人はほとんど持っていないのです。 例外として、1905年に神戸で、日露戦争の講和条約に不満を抱いた民衆が伊藤博文像を引き倒し、市内を引きずり回す事件が起きました。興奮した民衆が銅像を倒した点だけは、現在の事態に似ているかもしれません。? 日本では、銅像と公共空間が強く結びついていません。市民が、その足元に結集するような銅像が日本にあるでしょうか。銅像は公共性に欠け、市民はほとんど無関心です。だから「この像がここにあっていいのか」という議論が起きる余地がない これを契機に、街にある銅像の存在意義を考えてみてはどうでしょう。銅像に限らず、100年以上存在してきた公共彫刻のあり方を捉え直すいい機会だと思います。」と述べています。
「日本では、銅像と公共空間が強く結びついていません。」そうでしょうか。皇国史観と天皇制を認知させる皇居外苑広場の「楠木正成」像も然り、日本陸軍の父を称える靖国神社境内の「大村益次郎」像も然り、其々に「人物の評価」があるので、GHQも日本政府も残存させたと考えています。

川柳作家鶴彬は昭和3年(1929)12月30日「氷原」に「軍神の像の真下の失業者」を発表しました。特高警察の監視を逃れるために上京していますので、この軍神の像は万世橋駅前広場に建立されていた「日本初の軍神広瀬武夫中佐と杉野孫七兵曹長の銅像」だと思います。因みに陸軍の軍神第一号は橘周大中佐です。
靖国神社偕行文庫室に寄贈した「偉人の俤」から転載します。

万世橋駅前広場の広瀬中佐と杉野兵曹長像

戦後の解体工事。銅像は川口市の鋳物工場で溶解されたそうです。

靖国神社内苑の富國徴兵保険相互會社献納の大灯篭レリーフ「旅順閉塞作戦」

愛国婦人会創立者奥村五百子(いおこ)像(九段下旧千代田区役所前にありましたが何時の間にか行方不明に。「築地にマグロ塚を作る会」川口重雄さんは、毎夏「日本ところどころ紀行」をしておられますが、唐津から平戸東彼杵郡川棚町、佐賀、菊池などを訪ねました。そのときのスナップ写真を頂きましたのでアップします。佐賀県唐津市城内の二の門交差点の傍らに和服を着た女性の銅像。


大村益次郎像(台座柵の弓矢と大砲8門中7門は金属供出)


九段坂上の陸軍大将川上操六像(金属供出)

大山巌元帥像(三宅坂陸軍省に建立されていたが、九段坂上の千代田区立千鳥ヶ淵公園に移設)

九段坂上の子爵品川弥二郎像

皇居外苑休憩所前広場の楠木正成像

北の丸公園内の北白川宮能久親王像

金沢市兼六園内の日本武尊像(富山県高岡市で鋳造された西洋式銅像第一号。第二号は東京砲兵工廠鋳造の大村益次郎像)


靖国神社ツアーのガイドをする管理人

(了)
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