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謎の屏風が語る 〜復元推理 大坂冬の陣図屏風〜 

2020年07月25日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



大坂冬の陣を伝える屏風が復元された

 ☆豊臣滅亡後に描かれたのに、屏風には豊臣優勢の場面ばかり描かれている
 ☆大坂冬の陣図屏風
 ☆誰が何のために描かせたのか?

復元された大坂冬の陣の屏風
 ☆豊臣滅亡後に描かれたのに何故豊臣優勢の場面ばかり描かれている
 ☆真田信繁(幸村)の活躍で知られる大坂冬の陣
 ☆最大の謎は、誰が何のために作成したのか? その発注者は誰か?
屏風の特徴
 ☆武士だけでなく、町人、商人まで描かれている
 *風俗図屏風のような印象
 *堀の中を人が歩いており、堀の中に築山も築かれている
 ☆徳川方が淀川の上流をせき止めた結果
 *堀の水が下がった結果をリアルに描写している
 ☆堀の中に夜間照明の提灯も描かれている
屏風発注者の条件
 ☆豊臣方が奮戦た、徳川方がやられている場面も描かれている
 ☆豊臣家にシンパシーを持つ人物が描かせたと考えられる
 ☆描かれている大坂城が綺麗すぎる
 *大阪城、大砲で塀などはボロボロにされたのに
 *徳川方寄りの人物の描かせ方ではない
 ☆大坂城の描写が正確で、豊臣大阪城を知る人物が描かせた
 ☆屏風を作らせる発注者の条件は3つ
 *豊臣家にシンパシーを持つ
 *豊臣大坂城をよく知る
 *屏風を作らせる財力がある
真田信之(発注者)
 ☆真田丸が大きく描かれている
 *真田丸の攻防戦を称える意図がある場合
 *発注者として、真田信之が考えられる
 ☆財力はあるが、豊臣家にシンパシーを感じていたかは疑問
伊達政宗(発注者)
 ☆屏風の右下には九曜紋を掲げた巨大な陣小屋が描かれている
 ☆九曜紋といえば細川家
 *伊達政宗が細川忠興から使用の許可を得ている
 ☆大坂の陣では片倉重綱が使用していた
 ☆自軍の活躍を記録として残すために伊達政宗が考えられる
 ☆伊達政宗には豊臣家にシンパシーを持っていたエピソードもある
 ☆伊達軍は、冬の陣では活躍してないので、描かせる動機に乏しい
徳川秀忠(発注者)
 ☆屏風の右上には徳川秀忠の陣が大きく描かれている
 *家康の陣は半分程度しか描かれていない
 *家康が建てた大阪城西の丸天守が描かれていない
 *秀忠の功績を高めたいという意図が見受けられる
 ☆徳川秀忠が発注者ならば、徳川家で本物を持っていいるはず
 ☆残っていないということは、秀忠が発注者でない
蜂須賀至鎮(発注者)
 ☆豊臣大坂城を後世に残すという強い意図が感じられる
 ☆豊臣恩顧の大名だが、徳川につき、図の真ん中に描かれている
 ☆蜂須賀至鎮が発注者として考えられる
 ☆蜂須賀家は、大坂の陣の活躍が認められ淡路国を加増された
 ☆屏風に、蜂須賀家が負けている場面が描かれている
 *蜂須賀家が発注者なら、活躍している場面を描かせる
千姫(発注者)
 ☆千姫は徳川秀忠の長女で、豊臣秀頼の正室
 ☆千姫は化粧料10万石あり、財力は申し分ない
 ☆3つの条件を千姫はすべて備えている
 ☆千姫の後ろには徳川秀忠がいる
 *徳川秀忠の協力の下作成した
 ☆千姫とした場合
 *豊臣家にシンパシーを持つから発注したのと違う
 *千姫が強いシンパシーを持っていたならば
 *仏門に入って秀頼の菩提を弔っていた
 *本多忠刻とも再婚しなかったはず
千姫が屏風を発注したのは、千姫の不幸が原因なのでは
 ☆本多忠刻との間に生まれた長男・幸千代が3歳で亡くなる
 ☆本多忠刻も31歳で、母江も同じ年に亡くなるという不幸が続く
 ☆占ったところ秀頼の祟りが原因と
 *千姫は秀頼の怨念を鎮めるために仏像を奉納した
 *その一環で、豊臣家が活躍している大阪冬の陣図屏風を作った
 ☆大坂冬の陣図屏風が後世に残らなかったのは
 *千姫の個人的思いで作成したから
 *千姫の死後、それを守る人がいなくなった
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
出典内容の知識共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介しました
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
詳細は、出典記事・番組・画像で確認ください
出典、テレビ朝日『戦国巡礼絵巻』、NHK『英雄たちの選択』












謎の屏風が語る 〜復元推理 大坂冬の陣図屏風〜
(『英雄たちの選択』テレビ番組画面より画像引用)

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