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故北宏一朗さん講演記録其の三「日本軍の毒ガス戦を下支えした軍需産業」 

2020年06月26日 外部ブログ記事
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>故北宏一朗さんの講演記録「海軍の毒ガス製造」一周忌にあわせて発刊されました<「日本軍の毒ガス戦を下支えした軍需産業」をエントリーします。北さんが「中国人強制労働問題で西松建設を訴え、和解したケースと同じように毒ガス被害者賠償請求事件も、毒ガス原材料を製造し、大儲けしてきた会社を訴えるべきだ」と、語気を強めながら語っていたのが印象的でしたが、管理人も同意見です。
故北宏一朗さんの講演記録其の二「真鶴沖に捨てられた毒ガス」

1946年マッカーサーの許しを得て、天皇裕仁が全国を行幸しました。本題に入る前に、三井染料にも行幸した記事が見つかりましたので転載します。象徴天皇制と天皇裕仁の戦後を考える史資料だと思います。
『昭和24(1949)年5月29日、昭和天皇が三池染料を御視察あそばされたときの状況。九州御巡幸11日目のこと、三井鉱山三川鉱業所を御訪問の後、三池染料工業所に陛下御来駕の栄に浴した。御着きになられた陛下は、榎本好文社長のご説明をお受けあそばされた上で、御休憩もそこそこにインジゴ工場、硫化ブラック工場など御車で巡察され、勿体無くも御車から降りられて、親しく従業員にお声をお掛けになられたということです。』
日本軍の毒ガス戦を下支えした軍需産業
? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? 2014.18? 軍隊が毒ガスを作り、使ったが、それを下支えした企業のことを話します。資料が敗戦後散逸していて、企業も隠蔽しているので、系統だった資料が残されていません。それぞれの会社の社史をたぐってみると、少しわかる程度です。陸軍は三井三池・日本ソーダを重視していました。福岡県大牟田にある三井染料工業所では大量に毒ガスを生産していました。今年は第一次世界大戦が始まって100年です。毒ガスのひどさは何も変わっていません。第一次世界大戦では、毒ガスの被害兵士が90万〜200万人といわれています。その後ジュネーブ議定書がつくられ、毒ガスが禁止されます。日本軍は国際法違反という認識はありました。それでも毒ガス製造に乗り出すのです。1921年に陸軍の久村種樹中佐が中心になって毒ガスの研究・製造を始めます。海軍は1934年技研化学研究部を設置し、陸軍と協力して毒ガス開発をすすめます。海軍は第二次上海事変の上海で使った催涙ガスが最初です。三井は軍需企業として、三菱に遅れをとったということで、化学部門で軍にとりいっていきます。久村は三井系ではありませんが、敗戦間際に三井のトップになっていきます。
? 大牟田の「爆発赤痢事件」について話します。1937年9月25日〜26日にかけて当時福岡県大牟田市の人口11万人のうち、死者712名、罹患患者2万5千人という被害を出した「赤痢事件」です。福岡県衛生部は、水道水が原因、と発表します。死者があふれ、火葬場が火事になる、というおまけもありました。9月25 日の夕方に三井三池染料の工場で爆発事故がありました。その日の夜にもう一度爆発がおきています。この爆発が原因と考えた人もいましたが、内務省・県・軍により闇にほうむられたのです。その後、赤痢の予防薬9万粒が配布され、予防薬を飲んだ人から赤痢菌が出ました。国家がやった犯罪です。三井三池染料は毒ガスをつくっていました。ジフェニールアルシンというアカ剤の原料、イペリットの中間薬を量産していました。1937年9月というのは、廬溝橋事件で日中戦争が勃発した直後で、陸海軍からの注文が殺到し、三井三池は増産に励んでいた時期です。日中戦争がはじまり、軍機法が強化され、報道ができませんでした。戦後、大牟田市水道課長の塚本さんという方がメモを残していて、この塚本メモにより、いろいろなことが判明しています。このメモには爆発の詳しい状況も記されています。赤痢菌は空気感染しないはずなのに? ? ?という疑問も出ていました。ア力剤・イペリットの中間剤をつくっていた三井三池染料は、これを広島県大久野島、神奈川県寒川町に送っていました。三井は積極的に毒ガスをつくり、財をなしたのです。? 戦後、70年代に朝日新聞の記者が、この事件を書き始めていたのですが、連載は数回で止められ、この記者は左遷されてしまいました。未だになぞの多い事件です。しかし、毒ガス生産の過程でおこった事故であることは間違いありません。? 毒ガスは今も自衛隊が生産しています。普通の化学会社がちょっと工程を変えるだけで毒ガスができます。原発も同じですが自然界では分解されません。どんなに少量であってもあってはならないのです。? 三井三池の毒ガス生産ですが、1934年には月産30トンとなっています。1941年に三井化学は小さな会社を糾合して大きくなります。「三井鉱山社史」には毒ガスの記述がありません。「三井事業史」には記述があります。
? 他の会社はどうでしょうか。古河工業は「旭電化工業社史」によると「半島人を軍が直接連行して、労働者を集めた」と記されています。日本曹達は海軍・陸軍に飛行機を一機献上しています。保土谷化学という会社はホスゲンをつくっていました。こういう会社が戦後、再生しようと言うときに、戦前の毒ガス製造が土台になっていました。南方からの生ゴムを隠していた三光化学という会社は海軍相模工廠の所長が社長に就任します。横浜ゴムは相模海軍工廠の跡地に工場を建てます。呉羽化学(クレハ)という会社は東京新宿区百人町の陸軍第六研究所の跡地にありますが、福島県いわき市で風船爆弾の原料をつくっていました。三井三池染料は戦後、1950年に三井東圧(三井化学)となりますが、24D,245Tなどという薬剤を製造しますが、これは枯れ葉剤です。これを三井は輸出しています。シンガポール経由でオーストラリア ?ニュージーランドに渡り、これがメキシコ経由でアメリカにいきます。これがベトナム戦争で使用された枯れ葉剤です。米軍がベトナムで蒔いた枯れ葉剤の3分の1は日本製でした。日本の林野庁はこれを除草剤としてバラまいたのです。1971年にようやく散布中止になります。残ったものはどうしたでしょうか。土の中に埋められてしまいました。? 企業の責任は大きいと言わなければなりません。死の商人です。町全体が企業城下町になっているのです。戦前・戦後と変わりません。1960年代に三井三池で炭塵爆発の事故がおこります。一酸化炭素中毒では脳が萎縮してしまいます。家族が訴訟に訴えようとすると、患者は精神病院にいれられて、出てくることができません。水俣病も同じ構造をもっています。宮崎県に土呂久鉱山があります。ここでは住友金属鉱山が亜ヒ酸の製造を行っていました。この地域の住民がヒ素中毒になりました。住友はこの亜ヒ酸を三井三池に持って行っていたのです。毒ガスの原料です。? 軍の命令で仕方がなかった、と言っていますが、そうではありません。積極的に軍にとりいって、企業を大きくしていったのです。死の商人です。? このあと質疑応答がありました。? 「爆発赤痢事件」が話題になりました。「今でも問題にして真実を明らかにすべきでは・・」「戦後、記事を書いた朝日新聞の記者は今どうしているのか」などの発言がありました。北さんは「戦後、三井はGHQあてに報告書を出しています。1945年になっても 三井は海軍に納入しています。これらをGHQには、すべて防御用である、と弁明しています。」と答えています。また「今、シリアの化学兵器問題がありますが、これは適切に処理されているのいですか」という質問もありました。北さんからは「シリアの化学兵器は海上処理と言っています。船の上で処理すると言っても毒性がまったくなくなるわけてはありません。結局海に流し、薄めてしまい「処理」されたことになるだけです」との解説がありました。? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? 2014.3.5?1月の学習会の続きです。軍需産業第二弾です。? 日本曹達は戦前に化成ソーダ、さらし粉などの生産で大きくなった新興財閥です。1935年に新潟県の二本木工場を建て、日曹コンツェルンを形成します。1938年に陸軍の参加にはいり、塩酸やェチルからェチレンクロールヒドリンなどをつくり、陸軍の大久野島製造所で加熱だけをおこない、福岡県の陸軍曽根製造所で砲弾に装填し、中国大陸などに輸送したのです。
? 日本曹達のメイバンクは日本興業銀行です。この銀行は明治3 5年に政府がつくった特殊銀行です。国策による銀行です。毒ガス製造の原材料を供給する会社として日本曹達があります。 この前身は保土谷化学という企業でした。毒ガスのホスゲンをつくっていました。毒ガスは軍が造り、使った、といわれていますが、原材を供給する企業がなければ毒ガス戦はできません。この企業がもっていた原材料は敗戦時にどうなったのでしょうか。ドラム 缶にはいったまま隠されたのです。
? 50?60年代に自衛隊がドラム缶500本を海洋投棄しています。相模海軍工廠は平塚化学実験室をもっていました。戦後、この地に建てられた工場敷地からヒ素で汚染された土壤がみつかりました。トラックで鹿島の焼却施設に運んだといわれています。茨城県神栖市旧波崎町に高砂香料工業の研究所があります。神栖市毒ガス地下水被害があった旧神栖町に隣接しています。このような例がたくさんありま す。? 水俣病で有名なチッソも戦前、朝鮮で毒ガス製造があった、という証言もあります。化学工場のあるところは毒ガス製造が可能なのです。そして、重大なことはヒ素は無毒化で きない、ということです。
(了)

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