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故北宏一朗さんの講演記録其の二「真鶴沖に捨てられた毒ガス」 

2020年06月24日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



>故北宏一朗さんの講演記録「海軍の毒ガス製造」一周忌にあわせて発刊されました<
講演記録の「真鶴沖に捨てられた毒ガス」をエントリーします。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ??真鶴沖に捨てられた毒ガス? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? 2016.97? Aさんは、今年90歳、日本の敗戦時(1945年)には二十歳でした。現在、陸軍第六研究所の研究員で生き残っている方は3人しかいません。Aさんは、1939年14歳の時、国民学校高等科の生徒だった時、六研所員が学校に視察に来たそうです。その時にAさんの学習ぶりを見て、六研に誘ったそうです。一本釣りです。陸軍第六研究所は東京の淀橋区百人町(新宿区)にありました。今のJR高田馬場駅の山手線の西側です。Aさんは、技術関係のことが好きでした。? 新宿には、陸軍技術本部、科学研究所があり、少し離れた東側に陸軍軍医学校がありました。この軍医学校防疫研究室は中国ハルピン市の関東軍第7 31部隊の本部となっていたところです。
新宿区平和マップの一部

新宿平和委員会発刊「軍都新宿を訪ねる。葵から菊へ」(絶版)から


北宏一朗さんが作図した神奈川県毒ガスマップの一部

Aさんは、1944年に、防疫研究所から神奈川県湯河原吉浜に移りました。湯河原吉浜?鍛治屋町の六研の出張所は1942年に千歳製紙工場を接収して開設しました。ここは背後は山になっていて、付近に住民の居住も少ない、という軍の機密を保持するのに都合がよいところとして選ばれました。ここでイペリット?青酸の研究に従事していました。青酸の合成や、 イペリット?ルイサイトの混合など諸々の実験をてがけ、研究の成果を吉浜で具体化していきました。本土決戦に備え、青酸?イペリットのボンベが備えられました。海軍は平塚市に毒ガス部隊が存在していました。陸軍も海軍も本土決戦の準備を相模湾沿岸ですすめていたのです。? 敗戦の時、1945年8月15日の夜から真鶴沖から初島を結ぶ線あたりの海中に大量に毒ガスを投棄した、と証言しています。湯河原の吉浜出張所には、青酸のボンベが200本、イペリットのボンベが200本ありました。全部は捨てられず、3分の1から半分程度しか捨てられず、残りは、陸路で千葉県陸軍習志野学校に運んだ、といいます。そこから後のことはAさんは知りません。捨てたのは、150本から200本です。ボンベは重たいです。2〜3人の男がかかえてやっともてるぐらいです。中はなまりのコーティングとなっていたので重いのです。小田原市を中心に配備されていた突部隊の2隻の上陸用舟艇が使われました。漁労隊として使われていました。隊員の食糧確保のため、にわか漁師となった兵士が自分たちの食べるものを取っていたのです。一回に運べるのは、6〜7個ぐらいです。このボンベ もバルブが緩んでいたり、中身が吹き出してきたり、突部隊の人も含め、毒ガスを浴びてしまっています。? 今から10年ほど前、湯河原吉浜のみかん畑で、子どもがびんを拾いました。家に持ち帰ると、親は警察に届けました。神奈川県警の調べで、このびんには青酸がはいっていたことがわかりました。もし、このビンがわれていたら、犠牲者がでていたのです。戦後60年たってもまだ、残骸は残っているのです。Aさんは釣りが好きです。しかし、真鶴では、絶対に釣りをしない、といいます。真鶴沖で奇形の魚が釣れる、と聞くと毒ガスのせいかな、と思うと言っていました。? 8月15日から一週間連日夜になると船をだして、毒ガスの海洋投棄を続けました。東京では、連日資料の焼却が続きました。化学兵器?細菌兵器は国際法違反なので、連合国にバレて、自分たちが戦犯になるのを恐れたためでした。連合軍の進駐がはじまる前までにすべて隠匿しなければなりません。一週間と期間を限定され、すべてを消し去ることとされました。
管理人が作図した「悪魔のネットワーク」(右上は北宏一朗さんから提供された「陸海軍化学兵器の共同研究に関する協定」を挿入した。)

? 日本の軍隊の「悪魔のネットワーク」が天皇を頂点につくられていました。参謀本部直属の組織がたくさんあります。全部、天皇の命令です。一切の証拠を隠滅する必要にせまられたのです。陸軍と海軍は仲が良くない、といわれていましたが、毒ガスに関しては共同で開発していました。1922年に海軍省と陸軍省が次官協定を結び、化学兵器の共同研究に関する協定を結んでいたのです。Aさんの話しでも「そういえば、海軍がしよっちゆう来ていた」と言っています。

? 吉浜での研究?実験は青酸,イペリットが中心ですが、動物実験は豚?馬?うさぎなどが使われました。青酸は5度以下では、効果がでません。寒いところでは活用できないのです。シンガポールではうまくいった、とAさんは言っています。イギリス軍の軽戦車に青酸ビンをなげて効果を発揮したというのです。青酸の中に銅の粉を混ぜる、と安定し、気化熱を発生し、殺傷力を高めたりしました。ここでの実験で人体実験もしています。農村の貧しい女性を使ったと言います。イペリットを飲んだ女性を軍医学校時代にメスのいれ方の習得し、それを使いました。海軍平塚工廠では、毒ガス技術研究所に秋田から働きに来ていた人の中に知恵遅れの人がいてその人を人体実験に使ったのです。医の倫理も何もありません。
チチハル市の遺棄毒ガス被害現場を調査する弁護団

「チチハル遺棄毒ガス被害国家賠償請求訴訟」2007年1月25日 東京地裁前の入廷行進

? Aさんは、中国黒竜江省チチハルへも二回行った、と証言しています。チチハルの関東軍第516部隊へ青酸とイペリットを運んだのです。そこで、人体実験もやったといいます。ロシア人だったと証言しています。AさんはJR飯田橋駅前の物理学校(今の東京理科大)在学中に中野区の高等無線に9ケ月配属されます。無線の資格をとるためです。そして、乱数表を渡され、チチハルの516部隊との交信の任務につきました。軍医学校時代はX線の機械を操作できるように、と資格を取らされました。だから、Aさんはレントゲン技師もできます。? 吉浜には30人ほどの研究員がいたようです。まかないの人の証言でそのくらいの人数分の食事を毎回つくっていました。ここには日本各地の大学からも研究員がきていました。 東京大学?北里大学?理科大学の人もいました。関西弁の人もいました。京都大学のようです。? Aさんは10年ほど前に環境省から電話を受け、ヒ素のことを尋ねられたそうです。茨城県神栖事件のことにかかわっています。環境省は神栖市のヒ素の由来をわかっていたと思います。 三共化成という会社に由来するのです。この会社は平塚海軍工廠の毒ガス研究所の跡地に工場を建てています。この敷地から出た毒ガスを廃棄しようとしたのですが、三重県から処理を拒否されています。環境省はその後処理した、と発表していますが、詳細は発表していません。? 陸軍登戸研究所のことにも少しふれます。風船爆弾の研究と製造にかかわっていました。陸軍では、ふ号作戦として実行しようとしました。海軍はB級気球と称していましたが、太平洋岸からアメリカに気球を飛ばし、アメリカを攻撃しようというものでした。はじめ、 海軍も陸軍もアメリカ大陸の穀物を枯らす細菌の研究をしていました。炭疽菌などの研究を続けていました。最後は風船爆弾に細菌を載せるのではなく、焼夷弾を積み込みました。アメリカの山林を燃やす、というものでした。
?

? また、日本の化学工業は完全な軍需産業でした。久村という陸軍の科学技術部長は、1940年に予備役になりますが1941年には、三井化学の顧問になり、その後東洋高圧の社長に就任しています。陸軍?海軍の毒ガスの中間材を供給していたのです。三井のことを調べてみても普通の会社にある「社史」が見あたりません。呉羽化学も風船爆弾にかかわっています。福島県の勿来で風船爆弾に水素ガスを充填していました。? 戦後の処理もいい加減です。広島県大久野島の毒ガスは米軍が土佐沖で、船ごと海に沈めてしまっているのです。?子沖で70年代に漁師が底引き網に毒ガスをひっかけて被害にあっていますが、GHQが見つけたものは貨車ごと海に沈めています。「処理」というのは、 ほとんど海洋投棄です。毒ガスは比重が重いので海底近くに沈みます。しかし、津波などで海底から海の水がひっかきまわされたら、どうなるでしょうか。日本の周辺の海は全域、毒ガスに囲まれているのです
(了)

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