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平成の虚無僧一路の日記

虚無僧寺乙黒明暗寺と浜松普大寺の抗争 

2020年06月13日 外部ブログ記事
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明暗寺といえば京都ですが、山梨県中央市乙黒にも明暗寺がありました。江戸時代の末、天保15年(1844)、岐阜の芥見村で、乙黒明暗寺と浜松普大寺の虚無僧とで、留場(とめば)をめぐっての縄張り争いがありました。留場と云うのは、虚無僧の横暴に手を焼いた村々が、虚無僧寺に毎年、米や金品を差し出すので、虚無僧が来ないようにしてくれと証文を差し出した地区です。この留場が虚無僧寺の収入源になっていたので、虚無僧は托鉢などせず、飲む打つ買うの放蕩三昧、堕落腐敗していったのです。「侍しか虚無僧になれない」と云いながら、実態は、百姓、町人、船頭、無宿人にまで免状を出し、彼等「宗縁(虚無僧寺の関係者)」によって留場が管理されていました。そこで名古屋、岐阜には虚無僧寺は無かったのですが、甲府の明暗寺の宗縁と浜松普大寺の虚無僧が、岐阜芥見村の留場をめぐって争い、死者まで出ました。当然、幕府の取調べとなり、その結果、虚無僧寺には無宿人が紛れ込んでいたり、売女まで囲っていることが露見し、虚無僧の取り締りが強化されるようになります。そして明治になって、明治政府も普化宗を禁止、尺八吹いて門付けすることも禁止されたのです。現代の虚無僧愛好者は、いたって大真面目に普化の崇高な精神を学ぼうとする人ばかりですが、一般には「怖い」というイメージが付きまとっているようです。それは、昭和30年頃まで、さんざん悪さをしたゴロツキ虚無僧がいた記憶が潜在的にあるためでしょうか。虚無僧は「善と悪」双方を併せ持つ存在ではあります。

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