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平成の虚無僧一路の日記

NHK朝ドラ「エール」 早慶戦 

2020年05月21日 外部ブログ記事
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早慶戦の始まりは、なんと明治36年(1903)とのこと。福沢諭吉も大隈重信も存命の頃。
慶應の三田綱町球場にて行われた。
(ついでながら、この綱町から慶応中等部までの敷地は、江戸時代会津藩の下屋敷があったところ。私の先祖はここで生まれている。そして私は中等部に通っていた。なつかしい)
早稲田が慶應に「挑戦状」を送り、慶応が応じて行われた。
試合は11-9で慶應の勝ち。当時早稲田は野球部発足からまだ1年余り。対する慶應は発足から20年近い歴史を持っていた。
しかし発足一年余りの早稲田が9点獲得と大いに善戦したことは大いに評価された。
翌1904年、当時学生野球王者と謳われた一高野球部に早慶両校が連日にわたり勝利し、早慶戦は学生野球の頂点として衆目を集めた。
それは同時に応援合戦の過熱も招き、1906年秋、第1戦で勝利した慶應の学生が大隈重信邸や早稲田正門で万歳を行えば、第2戦に勝利した早稲田の学生もが福澤諭吉邸や慶應正門に大挙して押しかけ万歳三唱を行うなど、両校応援団は一触即発の険悪な状況となった。事態の悪化を危惧した両校当局は第3戦を中止し、以後早慶戦は長い空白期間に入る。
野球だけでなく、全競技で慶応と早稲田は絶縁状を突き付ける事態に。
早慶戦が復活するのは19年後の1925年(大正14)。明治、立教、法政の3大リーグ戦に東大が加わり、慶応、早稲田に呼びかけて「東京六大学野球連盟」が創設された時のことだった。
復活した早慶第1回戦(1925年10月19日)の試合前、早稲田の部長安部磯雄がグラウンドに立ち、早慶戦復活が野球の発展にいかなる意義をもつかを、応援におけるマナーの遵守を求める請願とともに満場に訴えたとのこと。

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