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平成の虚無僧一路の日記

1919年大流行のスペイン風邪で亡くなった大山捨松 

2020年04月10日 外部ブログ記事
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1919年世界中に猛威を振るったスペイン風邪。大山捨松もスペイン風邪で亡くなっていた。
明治元年、戊辰戦争で会津は敗れ、明治2年藩士は青森県下北半島に設けられた斗南藩に移住。不毛の地で刀を鍬に持ち替えて山野を切り拓くも、明治4年廃藩置県で斗南藩が消滅。藩士の多くは故郷会津か東京に移住する。会津藩家老山川大蔵は妹の咲子をアメリカ女に留学させる。咲子11歳。当時アメリカに渡るのも命がけ。母は「捨てた思いで帰りを待つ」という意味をこめて「捨松」改名させる。同行者に津田塾を創設した津田梅子6歳。
アメリカで12年大学を優秀成績で卒業し、1882年帰国。しかし「女に教育は要らぬ」という男尊女卑の日本では仕事は与えられず。大山巌の後妻となる。大山巌は西郷隆盛の従妹。薩摩藩士で戊辰戦争では会津を攻めた総大将。犬猿の仲の薩摩人との結婚はアンビリバボー。周囲の猛反対を押し切って結婚。大山巌44歳。捨松22歳。大山巌はフランスにも留学しており、外国帰りの捨松とは馬があった。鹿鳴館で外国の公使、商館長を招いて様式の結婚披露を開催。たちまち「鹿鳴館の女王」となる。大山巌は日清、日露戦争で司令官を務め、陸軍大臣、公爵にまで出世した人。夫のバックアップもあって、日本初の看護学校を設立。女子学習院、津田梅子の英語塾の設立に大きく関わる。


大山捨松の生涯 〜その情熱と志〜
明治維新から、わずか4年後の1871年。5人の少女がアメリカに渡った。その中に当時12歳の山川咲子、のちの大山捨松がいた。激動の明治時代にあ...
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