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平成の虚無僧一路の日記

虚像の「力道山」 

2020年03月15日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



ネットを検索していて「力道山は朝鮮人だった」と初めて知った。日本名は「百田 光浩(ももた みつひろ)」だが、朝鮮名は「金 信洛(キム・シルラク)」。そのことは、公然の秘密だったようだ。相撲界に入った時は、朝鮮人として登録され、「朝鮮人、朝鮮人!」と差別を受け、「朝鮮人は横綱になれない」との不満から プロレスに転向したようだ。そして、得意の空手チョップで外国人レスラーを次々にやっつける雄姿は、敗戦国の日本人にとって「ヒーロー」となった。日本人のヒーローは「日本人」でなければならず、そこで「力道山」が朝鮮人であることはひた隠しにされたのだという。なんだか悲しい話だ。2004年、韓国映画で『力道山』(ソン・ヘソン監督)というのがあったそうな。韓国人の監督により、韓国人の俳優が演じた。相撲界での差別に暴れまくる力道山、外国人レスラーをなぎ倒す力道山に涙を浮かべて狂喜する日本人、力道山の真実をあますことなく再現した映画。その映画のキャッチフレーズが「日本人が一番力道山のことを知らない」とあった。本当にその通り。力道山は、殺される半年前、日航の国際線スチュワーデス「田中敬子」さんと結婚していた。その「田中敬子」さんが『力道山の真実』(力道山の妻、田中敬子)という本を出版している。「婚約が決まり、『朝鮮の出身だ』と初めて打ち明けられたとき、主人の涙を見ました。泣いたのを見たのは 私がプロポーズを承諾したときと2回だけです」。「死の真相」についても、「手術後も暴飲暴食をしていたから」というのは嘘です」とのこと。どうやら、「常人とは異な体格、腹筋の厚みに、麻酔薬を2倍投与したため」とか。手術室に入る前の最期の言葉は「オレはまだ死にたくない」だった。田中敬子さんは『力道山の慟哭』という本も出している。亡くなる前の力道山は、すでに40歳を越え、体力にも翳りが出てきていた。「どうせ死ぬなら リングで死にたい」と洩らしていた。力道山が刺される2日前、昭和38年12月6日、名古屋の金山体育館での控え室で「片輪者になって生きていたってしょうがない。恥さらしだ。本物のポンコツになってしまはないうちに引退しないと」としんみり語っていたそうな。その時、力道山は 右腕の筋を切って、空手チョップの威力もなくなっていた。「空手チョップのない力道山なんて意味がねえ!」と力道山は自嘲した。12月8日は「パールハーバー、真珠湾攻撃の日」。この日力道山は相撲協会の高砂親方ら相撲関係者の来訪を受けた。「大相撲のロスアンゼルス興行」を、興行師としても実力をつけていた力道山に頼みにきたのだった。かつて自分を追い出した角界が、自分に頭を下げにきた。力道山にとっては嬉しい出来事だった。力道山は上機嫌で料亭に親方達を招待し痛飲したという。その後、TBSのラジオ番組は酔っ払って収録ができなかった。その後、力道山は赤坂のニュー・ラテン・クォーターに向かった。そこは行き着けの店ではあったが、力道山のバックにある「東声会」とは対立する「住吉連合系」の“シマ”で、その「村田」とは以前からトラブルがあった。泥酔していた力道山は、この「村田」に「足を踏んだ」と言いがかりをつけ、袋叩きにした。先に手を出したのが力道山だから、村田は正当防衛だが、“ヤクザもん”だから「7年」の判決となった。

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