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都わすれの「「ベガルタ応援日記」
もう9年・・まだ9年・・!? 続き
2020年03月11日
テーマ:テーマ無し
嫁さんが帰宅後「元の我が家に行ってみて来る」って言ったら、頼むから行かないでって言われて我慢していたが、5時頃になって「すぐ帰るから・・」と元の我が家に向かった 宮城県沖地震の時会社に戻ったら、ガスボンベが倒れてホースが外れガスが「シューシュー」噴き出していたから心配だった 我が家の裏の市道水道工事で掘った後が、陥没していたが軽だったし何とか・・ 家の中は勿論足の踏み場が無いし、車庫は二階の物が随分下に落っこちていたが、危ない様子はなかった そこへワゴン車のお姉ちゃんがやって来て「そこまで水が来てますよ」って言われたが、勿論津波の水だなんて知らない 1986年の8月5日だったが豪雨で自宅玄関口にスレスレってことがあったから(道路は膝上)、慌てて帰った 携帯は地震の直後青森に住むベガサポさんから、「大丈夫ですか・・?」って電話が入ってから、電話もメールも繋がらなくなった(息子が帰宅するまで津波も知らなかった) あの日私は鉄でできた「焼き芋鍋」で、サツマイモの焼き芋を作り新聞紙にグルグル包んで持参したのだった オール電化の我が家は水は出たが、何も食べるものがない(コンビニなど空いてなかったし) 私はサツマイモが苦手だけれど嫁さんが食べるからね 夜になって「お母さん何も食べるものがないから、今夜は焼き芋を食べましょう」だった 幸いベッドの上は何も落ちてもいなかったから、電気はつかないし早く寝るしかなかった 翌朝息子と元の我が家に行き家の中に入ったら、台所の天袋からカセットコンロが下に落ちていた ボンベは錆びていたが階段の下の収納庫にあったから、持ち帰り息子に「あんたの責任においてやってみて」って言ったら使えた 水は出ていたから(米も30キロ搗いたばかりだった)嫁さんが、カセットコンロを使い鍋でご飯を炊き納豆とか、ある物で腹ごしらえは出来た 何度も炊いておにぎりを作り息子は会社に持参、暫らくは歩いて通ったが往復12〜13キロあったか 私の車はこれまた運良く前日満タンにしたばかりだったが、息子から出来るだけ車を使わないようにと言われたが、その後ガソリンを買うのに5時から代車を押して何度も並んだね 六郷中学校と農協など避難所になっているところに、知人を探しに毎日通ったが徒歩で今より歩けたが、6Kくらい歩いたか・・ 夫の実家の家族や親戚の人は分かったが、友達は「行方不明」になっていて聞いても分からないんだよねぇ ある日行方不明だった友達が元の我が家にやって来て、「家を貸して欲しいと言った」が勿論貸せる状態じゃない 聞けばビニールハウスの中で市場に出す野菜の準備をしていたが、お母さんと京都に就職が決まり住まいなど決めて帰宅した息子さんは、津波に流されたと・・ ご本には偶々紐を持っていて流木に結びつけたら、そのまま流されて翌朝名取川の河口近くで見つけられたが、震災後雪が降る寒い日で「低体温症」で酒田の病院へヘリコプター輸送されて、退院したばかりってことだった(水の中の方が暖かかったって) 翌日から高校の先輩だったが彼を乗せて(車も浸水で無くなった)、まずは家探しで不動産屋さん回り・・運良く沖野に適当なアパートを見つけて引っ越しも、我が家から布団や家庭用品など軽トラックで2回運んだ(後日・・あれは取っておくんだったって言うのもあったが) 震災後早い時間に息子さんの遺体は見つかったが、いまだにお母さんは見つかってないが、毎日遺体安置書巡りも続いたよ あちこちで瓦礫の山などは「イヤ」と言うほど見たが、津波が襲い掛かる映像はそれ程見ていない 4日目の朝に電気が点いてテレビが見られたが、津波の映像じゃなく瓦礫の山ばかり映った テレビでは若林区で「200人の遺体」とか放送していたらしく、私が若林区在住って知っている方は本当に心配してくれていた やっと携帯が繋がった時ブログに「私は元気です」だけ書いたが、あれでホッとしたって方が沢山いた 我が家は外壁のリホームをやっていたから、外から見ると「一部損壊」に見えて12月までに、結果が出ると良かったが延び延びになって翌年2月「床下浸水・大規模半壊」がやって認められた 家の中を空っぽにするのに一人で丸1年かかり、あれ程働いたことはそれまでなかった 一昨年残っていた車庫の中も空っぽにして処分、それで一応終ったが自室には物が溢れていますが、今は十分抜動けない状態で目をつむっています ブログ村に登録しておりますので、「ポチッ」と応援いただくと励みになります。
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