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平成の虚無僧一路の日記

南京虐殺はあったのか 

2020年01月25日 外部ブログ記事
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中国慰問団を調べていて、『最後の殿様 徳川義親自伝』「中国侵略軍を慰問する」という一文にゆき当たった。徳川義親は、尾張徳川家の第19代当主。「南京虐殺」について、吉本の芸人たちで構成された「わらわし隊」でも触れられているが、徳川義親の伝記にも、こう書かれていた。「"あれを撃て" ぼくが慰問を終えて帰国の途についた数日後のことだが、 日本軍が南京で大殺戮を行なった。今日では、南京虐殺は、 まぼろしの事件ではなかろうか、といわれるが、当時ぼくが 聞いたのは、数万人の中国民衆を殺傷したということである。 しかもその張本人が松井石根軍団長の幕僚であった長勇中佐で あるということを、藤田くんが語っていた。 長くんとは僕も 親しい。  藤田君は、僕が中国を去った後も、まだ上海に留まっていた。 麻薬の後始末や軍と青幇との交渉などをしていたときに、 南京から長勇中佐が上海特務機関にきて、藤田くんに会った。 二人は同郷の福岡の関係でいっそう親しい。その親しさに口が ほぐれたのか、長中佐は藤田君にこう語ったという。  日本軍に包囲された南京城の一方から、揚子江沿いに女、子どもを 混じえた市民の大群が怒濤のように逃げていく。その中に多数の 中国兵がまぎれこんでいる。中国兵をそのまま逃がしたのでは、 後で戦力に影響する。そこで、前線で機関銃をすえている兵士に 長中佐は、「あれを撃て」と命令した。中国兵がまぎれているとは いえ、逃げているのは市民であるから、さすがに兵士は躊躇して 撃たなかった。それで長中佐は激怒して「人を殺すのはこうするん じゃ」と、軍刀でその兵士を袈裟がけに切り殺した。驚いた他の 兵隊が、一斉に機関銃を発射し、大殺戮となったという。 長中佐が白慢気にこの話を藤田君にしたので、藤田君は驚いて、 「長、その話だけは誰にもするなよ」 と厳重に口どめしたという。最後にこんな一文がある。「ぼくは東京に帰りついた。 橋本欣五郎くんから軍用葉書が きていた。  (中略) 橋本くんは満州事変の謀略に参画したが、山海関から先へ、 長城をこえて中国本土には絶対に侵入しない。すれば日本の 敗北である、と確信し、公言もし、僕にも語っていた。  すでにこのとき、日本の敗北を予想していたのだろう。 橋本くんはかねてから、『近い将来に、マッチ箱ほどの大きさの 爆弾で、何万人、何十万人と殺裁できる時代がくる。だから 決して、戦争はしてはならない』、といっていた」と。 南京事件の年の事だから、昭和12年である。その時すでに原爆開発の噂は流れていたのだ。

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