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平成の虚無僧一路の日記

南朝の末裔「熊沢天皇」と「竹内文書」 

2020年01月17日 外部ブログ記事
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私が生まれ育った家(目黒区祐天寺)の近くに「熊沢天皇」の 家があった。「熊沢天皇(=熊沢寛道)」のことは、もう 知る人も少なくなったが、戦後、「吾こそは南朝の正統なる 皇位継承者である」と名乗り出て、昭和天皇に退位を迫った 人物である。 1889年(明治22)生まれ。1966年(昭和41)77歳で 亡くなった。名古屋の北、一宮の「熊沢大然」の養子となり、 「三種の神器」を継承した。それで、名古屋では、熊沢天皇の 話題がたまに出る。東京の家は、どうやらお妾さんの家だったらしい。 「熊沢」氏の主張によれば、「熊沢家は、南朝の後亀山天皇の子孫で、 尾張国時之島(愛知県一宮市)に隠れ住んだ。南朝9代目の天皇 「熊野宮信雅王」に始まる家系で、熊野宮の「熊」と 奥州の地名 沢邑の「沢」をとって「熊沢」姓を名乗った。 その「熊沢」氏は、『竹内文書』を所持していたという。 その「竹内文書」ほか宝物 4,000点は、どういう経路か、福島県 双葉郡葛尾村の「光福寺(後に観福寺)」という南朝方の寺に 保管されていたが、明治中期に「斎藤慈教」という虚無僧によって 盗み出された。その後、1920年(大正9年)に、「竹内巨麿」が 古物商から買い取ったものと主張している。 一方「竹内巨麿」は、「武内宿禰」の子孫と称し、「竹内文書」は 神代の昔から、4代ごとに書き写してきたものと主張し、1910年 (明治43)、「竹内文書」と神宝類を「経典」として、茨城県の 磯原に「皇祖皇太神宮」を建立し、「天津教」を開いた。 「熊沢天皇」が所持していて盗まれたものという主張に 反論した 形跡が見られないのが不思議。 「竹内巨麿」が「竹内文書」や神宝類を一般に公開するように なったのは1928年(昭和3)だから、「1920年(大正9年)に 古物商から買い取ったというのも、可能性はありそう。 それにしても、南朝と虚無僧の奇妙なつながりをここにも感じる。 「竹内文書」の内容は、世界的、壮大なスケールで、原始 神の宇宙創成から神々の地球降臨、人類の誕生、二度にわたる 超古代文明の興亡、日本皇統の始まりを伝える。 これには多くの学者が「偽書」とし、「明治になって創作された もの」という鑑定結果が出されている。 『古事記』『日本書紀』や中世の正当な歴史書とはまったく かけ離れた荒唐無稽な内容で、今日、信ずる者はいないが、 それにしても、これを書いた人の想像力、超能力には驚かされる。

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