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痩田肥利太衛門残日録その二

ふるさとの町 山形県西置賜郡小国町 

2020年01月01日 外部ブログ記事
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山形県西置賜郡小国町

【吉田兼好の徒然草 第百十二段の抜粋】
人間の儀式、いづれの事か去り難(がた)からぬ。
世俗の黙(もだ)しがたきに随(したが)ひて、これを必ずとせば、願ひも多く、身も苦しく、心の暇(ひま)もなく、
一生の雑事の小節にさへられて、むなしく暮れなん。
日暮れ道遠し。
我が生(しょう)既に蹉?(さだ)たり。
諸縁(しょえん)を放下(ほうげ)すべき時なり。
信をも守らじ。
礼儀をも思わじ。
この心をも得ざらん人は、物狂ひとも言へ、うつつなし、情けなしとも思へ。
そしるとも苦しまず。
誉むとも聞き入れじ。
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【超概略】
社会の儀礼は避けにくく、かといって、義理を通し続ければ、一生は無駄に終わってしまう。今こそ一切の俗縁を捨て去る時である。「信義を守らない、礼儀に欠ける」と人に言われてもかまわない。
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この徒然草のことばを言い訳にして昨年(2019年)は学生時代や会社時代の同窓会への出席や年賀状の枚数を減らことにしました。
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【ふるさとの町 山形県西置賜郡小国町】
2019年8月には小・中学時代の友人に会って当時の活気あふれていたふるさとの町の思い出話をしてお互いなつかしみましたが実家に帰ってみれば、ふるさとの町の人口は1960年(昭和35年)1万7,800人、1970年(昭和45年)1万6,000人、2005年(平成17年)9,700人、そして2015年(平成27年)7,900人と減少しており、思っていた以上の人口減少に愕然としました。
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先日の新聞でも日本の出生率(構成労働省人口動態調査)は1960年(昭和35年)160万1,000人、1970年(昭和45年)193万4,000人、1973年(昭和48年)209万2,000人、1974年(昭和49年)203万0,000人、1975年(昭和50年)190万1,000人、1990年(平成2年)122万2,000人、2000年(平成12年)119万1,000人、2005年(平成17年)94万7,000人、そして2018年(平成30年)91万8,000人と1973年を頂点にして減少しており、2019年は90万人割れが確実と報道されました。
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こうなると、日本経済もコンドラチェフの波の仮説にあてはまっているのではないかと日本の行く末を心配になりました。(賢明なる日本の現在のリーダー、中堅・若い世代の力で杞憂を吹き払ってくれると思いますが----。2019年12月30日の年末の日経平均株価は1990年のバブル末期以来29年ぶりの2万3656円の高値で終わっていることからも。)
yaseta.hateblo.jp
そんなふるさとの現状を思い知るに至り、さびしさと1950年〜60年代の懐かしさよみがえり、まだ当時の街並みが残っているうちに町のイメージを具体的に残そうと、また年賀状の絵として使おうと11月イラストの作成にとりかかりました。
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作りながら、私が小学5年〜中学3年(1955年〜1960年)の頃はまだテレビはなく、実家の隣と裏の映画館や電興(*1)の映写会で見た邦画や洋画のこと等、懐かしい思い出がよみがえりました。
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12月初め、埼玉県入間市で医院をしている友人のお母さんが96歳で亡くなったというはがきが来ました。
友人の家は中学時代(1960年頃)、小国町で医院をしており、友人宅で私は当時の小国では珍しかった洋楽のレコードを聞かせてもらい、すっかり聞きほれてしまい、彼のお母さんからそのLPレコード(*2)をいただきました。(ケセラセラを歌い、その甘い歌声と美人のドリス・ディに魅了されましたが、彼女も2019年5月に亡くなりました)
yaseta.hateblo.jp
毎年、自家製カレンダーを友人へ送っていましたが今年はカレンダーが間に合わなかったので小国町鳥瞰図を送り、お礼と冥福を祈りました。
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私は年金生活しており、後期高齢者になり、社会に貢献するほどの力はありませんが、戦後復興、高度成長、低成長熟成時代を肌で感じてきた団塊の世代直前の戦前・戦後の狭間で生まれた一人の民として、できるだけ絵や文章を残し、いつか誰かに読んでもらえれば良いと思い、残そうと思っています。
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新しい令和時代を迎え、心を新たに
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【参考】
(*1)電興の変遷
当時、町の人は日本電興(東芝電興)を電興と呼んでいました。当時、電興は町の財政に大きく貢献する企業の製造所で、石英ガラス製品や炭素製品などを製造していました。その後は2社に分離、東芝セラミックスは半導体材料も作り、現在に至っています。
当時、炭素製品は映写機の光源の材料等にも使われていたようです。そのため、従業員の厚生として映写会が年に何度かありました。
1938年 日本電興 → 1958年 東芝電興 → 1968年 東芝セラミックスと日本重化学工業に分離 →
1968年 東芝セラミックス → 2007年 コバレントマテリアル → 2015年 クアーズテック
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(*2)思い出のL盤ヒット・パレード
山奥の私は知らず、後で分かったことですが、このLPレコードは戦後間もない暗い日本の社会にアメリカの明るいリズム、甘い歌声がラジオの番組「L盤アワー」から流れ、若者に人気がでて、L盤レコードを出したところ飛ぶように売れ、新曲とともに次々と版を重ね、L盤1号から10年目のL盤10号発売記念として1959年に販売されたものでした。
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ドリス・ディの「ケセラセラ」やローズマリーの「家に来なさいよ」などの軽快で明るいリズムにうきうきしましたし、「テネシーワルツ」と「霧のロンドン」を歌う・ディージョー・スタッフォードの甘い声で哀愁漂う歌にうっとりし、ジョニーレイの泣くような声の「雨に歩けば」に酔いました。
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