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平成の虚無僧一路の日記

旧暦・新暦と天文学 

2011年07月16日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



「俳句の季語」などで、よく悩まされるのが「旧暦」と
「新暦」のズレ。たとえば「七夕」は「7月7日」だが、
7月は、もう秋なので、秋の季語なのだ。

江戸時代の暦は 月の満ち欠けを中心とした「大陰暦」に
「太陽暦」も考慮し、12ケ月の年と、閏(うるう)月を
加えた「13ケ月」の年もあった。

それで、7月7日でも 年によって違う。

慶長14年の7月7日は、「1609年の8月6日」。
元和元年は、「1615年の8月30日」。
寛永11年は、「1634年の7月31日)。

こう1カ月も差があると、歴史的事件の認識も変わってかる。

白虎隊が自刃した慶応4年の8月23日は、まだ夏かと思うが、
新暦の「10月8日」だから、もう冷たい雨が降っていたのだ。
落城の9月22日は、新暦では「11月6日」というから、北国では
「冬将軍の到来 間近か」だったのだ。

江戸時代の初めまでは、平安時代からの「宣明暦」が使われていた。
渋川春海は、独自の計算で「暦」を作り、二度、幕府に「改暦」を
上奏したが却下され、中国の「暦」が採用された。

しかし、渋谷春海は 囲碁の師として江戸幕府に仕えており、
その囲碁の縁で 会津藩主の保科正之に見出され、将之の
後押しで、貞享元年「大和暦」が採用され、「貞享暦」と
名づけられ、貞享2年(1685)から施行された。

これが、日本人による初の「暦」であり、これ以降、渋谷春海は
「幕府の天文方」となった。

会津藩の藩校「日新館」には「天文台」があった。今でも
「天文台跡」の石垣が現存している。私は、子供の頃、会津に
行くと、よく登って遊んだものだ。
改めて「江戸時代の天文台」を調べてみると、江戸と薩摩と
会津の三カ所にしか無かったようである。会津藩祖「保科正之」と
天文学の意外な結びつきを知った。

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