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必見のパンフ「いま振り返る植民地支配 歴史と実態」日本共産党が発刊 

2019年10月10日 外部ブログ記事
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しんぶん赤旗(日刊)が9月8日から連載をしていた「いま振り返る植民地支配 歴史と実態」が、日本共産党中央委員会出版局からパンフレットとして発刊されました。
 


都留文科大学笠原十九司名誉教授談は、『戦争には必ず「前史」と「前夜」がある』と言われていますが、「韓国併合」も前史と前夜がありました。


<文字起こし>
2019年9月8日 しんぶん赤旗 「いま振り返る植民地支配 歴史と実態」(1)
脅迫と強圧で実現した「韓国併合」

 「日清戦争、日露戦争、満州事変と中日戦争、太平洋戦争にいたるまで、60年以上にわたる長い戦争が終わった日」。韓国の文在寅大統領は、日本の植民地支配から解放されたことを記念する光復節(8月15日)の演説でこう述べました。戦前の日本帝国主義による侵略と36年間の植民地支配は、韓国の人々から国を奪い、人間の尊厳を奪い、言葉や名前すら奪いました。韓国国民の中にその傷跡と怒りは今も消えていません。日韓関係を改善するうえで、加害者である日本が過去の植民地支配にどう向き合うかは決定的です。日本の植民地支配はどのように進められたのか、改めて考えます。(若林明)

日清戦争と日露戦争
 朝鮮支配をめぐる侵略戦争
 明治維新から10年もたない1875年、日本は江華島事件を起こしました。軍艦をソウルの入り口の江華島まで行かせて、衝突を挑発し、砲撃戦で砲台を占領し、大砲などを強奪。翌年、日本は朝鮮に不平等条約を押しつけました。これを機に日本は朝鮮への圧迫を続け、本格的な侵略に乗り出したのが日清戦争(94年)でした。
 当時、朝鮮では官吏の腐敗と重税に反対して東学農民運動が起こっていました。運動は朝鮮半島の南西部の中心都市・全州を実質的に統治するほど力を持ちました。
 ぞのとき日本は、朝鮮王朝の要請もないのに、東学農民運動への対応を口実に大軍を朝鮮に派兵し、ソウルを制圧。開戦直前の朝鮮王宮を軍事占拠し、国王と王妃を拘禁しました。そして、軍事的脅迫のもとで朝鮮に日本への協力を約束させたのでした。同時に、日本軍は農民軍の大量虐殺を行いました。その犠牲者は3万人、あるいは5万人に迫ると言われています。
 日清戦争に勝利した日本は下関講和条約(95年4月)で朝鮮への清国の影響力の排除を約束させますが、同条約で日本へ割譲をきめていた中国の遼東半島を、ロシア・フランス・ドイツの要求で清国に返遺せざるを得ませんでした。朝鮮での覇権を失うことを恐れた日本は同年10月、公使の三浦梧楼の指揮のもとに軍人らが王宮に押し入り、日本への抵抗の中心であった明成皇后(閲妃)を殺害し、遺体を井戸に投げ込むという暴挙を行いました。こうして日本は朝鮮の植民地化への一歩を踏み出しました。
 日露戦争(1904年)は、韓国(1897年に大韓帝国に改称)と中国東北部をめぐる日露双方からの侵略戦争=帝国主義戦争でした。
 日本は開戦と同時にソウルを軍事占領した上、韓国に「日韓議定書」を強要し、日露戦争への協力を約束させました。さらに、「第1次日韓協約」で、日本政府の推薦する「顧問」を韓国政府に押し付け、財政と外交の事実上の実権を握りました。

不法・不当な「併合」条約
 どう喝・拉致・監視下で
 日露戦争後、韓国に対する日本の覇権は無制限になっていきました。韓国の外交権を取り上げた第2次日韓協約(韓国保護条約)は、日本による軍事的強圧のもとで締結されました。
 特派大便の伊藤博文(初代首相、後に韓国統監)は「もし拒否するのであれば、帝国政府はすでに決心している。その結果はどのようなことになるか」(「伊藤特派大便内謁見始末」)と韓国の国王を脅迫。韓国政府の閣議の場に憲兵を連れて乗り込み、協約締結をためらう韓国の大臣を「あまり駄々をこねるようだったらやってしまえ」とどう喝しました。
 さらに、日本の特命全権公使の林権助は回想『わが、七十年を語る』で、韓国側の大臣が逃げないように「憲兵か何かを予め手配しておいて、途中逃げださぬよう監視してもらいたい。勿諭名目は護衛という形をとるのです」などと、事実上の拉致」監禁下での交渉であったことを記しています。
 この条約で、日本は韓国に「統監府」をおき、属国化を進め、1910年に「韓国併合条約」を押しつけました。
 当時の国際法でも国家の代表者を脅迫しての条約は無効でした。しかも第2次日韓協約で韓国から外交権を奪っておいて、条約を締結させたのですから二重三重に「不法・不当」なものでした。

「義兵闘争」「独立運動」
 抵抗する民衆 徹底弾圧
 しかし、日本の乱暴な植民地化に朝鮮の民衆は抵抗し、1906〜11年には「反日義兵闘争」が韓国全土に広がりました。これに対して日本軍は村々を焼き払い、義兵を大量に殺害し日本軍に非協力的な民衆を見せしめに殺傷しました。
 19年3月には、日本の侵略に抵抗を試みた前皇帝・高宗の死をきっかけに、植民地支配からの独立を目指す「三・一独立運動」が起こりました。ソウルで始まった運動は朝鮮全土に拡大。数百万人が参加したと言われています。この運動に対しても日本は徹底的に弾圧を行い、1年間で死者7千人、負傷者4万人、逮捕者は5万人に及びました。
 戦後、日韓請求権協定(85年)の交渉で日本代表は「韓国併合」を不法・不当なものとは一切認めませんでした。ぞれは、軍事的強圧のもとに締結したことを正当化する、国際的にも恥ずべき態度でした。

安倍「戦後70年談話」
 反省語らず日露戦争美化
 ところが安倍晋三首相は「戦後70年談話」(2015年)で、自らの言葉としては「侵略」.「植民地支配」への反省を語らず、朝鮮の植民地化を進めた日露戦争について「植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました」と美化しました。
 日露戦争直後に、ロシアの敗北を帝国主義の抑圧に苦しむ諸民族から歓迎を受けたという事実はありますが、すぐに真実は明らかになります。インドの独立・建国の父の一人、ジャワハラル.ネールは『父が子に語る世界史』で「その(日露戦争)直後の成果は、小数の侵略的帝国主義諸国のグループに、もう一国をくわえたというにすぎなかった。そのにがい結果を、まず最初になめたのは、朝鮮であった」と指摘しています。 

(了)

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