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のびたの日記

寺の歴史 時代とともに 浮き沈み   領主の交代 廃仏毀釈などに翻弄された 

2019年10月04日 外部ブログ記事
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明治維新の中で 私が最も残念に思っているのは 廃物希釈と廃城令 ことごとく破壊され消えて行った
廃城令は時の藩主や武士たちが そのシンボルである城が いつまでも変化に対応できないことに対処するもの
しかし 廃仏毀釈に至っては 神道を国家唯一の信教とするために すべての仏教 寺を追放 破壊したのである
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薩摩藩の大名 島津家に拘わる菩提寺などは 九州一の勢力で豪勢な寺領だった
ところが明治政府の方針で廃物希釈 墓地は何とか残っているが 建物 仏像 仏具 寺宝 全て壊されて行った
鹿児島県が全国で 国の重要文化財過疎県になってしまったのも これが影響している
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木曜日のてんがらもんラジオ ゲストはその鹿児島市・伊敷の歴史研究協会の池田会長であった
現在は跡地である市内の福昌寺(ふくしょうじ)について語る
毎回 ラジオであるため 寺や人物の名前が聴き取りにくい もしかしたら違うことがあったら寛容に願います(笑)
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この寺は曹洞宗の大きな寺だった 薩摩藩主・島津氏の菩提寺であったが 廃仏毀釈で明治2年に廃寺となった
山号は「玉龍山」 曹洞宗大本山総持寺の御直末である
江戸時代には最盛期1500人の僧侶が居たと言う
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廃寺後 有志が同地に福昌寺を再建しようとしたが許されず 県内・薩摩川内市に後裔の 福昌寺が建立された
明治31年のことである 当時のゆかりのものは無く 門の阿吽の仁王像は 埋めてあったものを掘り起こして運んだ
同じく 皇徳寺も曹洞宗永平寺直轄末寺だったが 現在は歴代住職の墓と仁王像だけが残る
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この寺は島津久保の菩提寺でもあった 秀吉の朝鮮出兵に応じ 現地で21歳で病死 父は島津義弘である
朝鮮出兵の時に 島津義弘 久保は 猫を7匹連れて行ったことが記録されている これは正確な刻を知るためだ
猫の目は 明るさに対応して開いたり薄くなるのが特徴だ 還ってきたときは 2匹だけになっていた
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この久保は ねこを非常に可愛がり 猫の名前にも自分の名前の一部 ヤスと名付けた
鹿児島の磯庭園=仙巌園の一画に 日本では珍しい 猫神社が建てられた 絵馬も白と黄色のネコ ヤスの猫模様
叔父にあたる島津義久は久保を弔うため 冒頭に「南・無・阿・弥・陀・佛」を冠した和歌を詠じている

「南」 なく蟲の 聲は霜をも 待やらて あやなく枯るる 草の原かな
「無」 紫の 雲にかくれし 月影は 西にや晴るる 行衛なるらん
「阿」 雨はただ 空にしられぬ 習なれや 憂き折々の 袖にかかりて
「弥」 みし夢の 名残はかなき ね覚かな 枕にかねの 聲ばかりして
「陀」 尋ねても 入らまし物を 山寺の ときおく法の 深きこころを
「佛」 筆をみぎに 弓を左に もてあそぶ 人のこころや 名に残らまし


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ネットで調べていたら 島津久豊の系統は 今上天皇の直系祖先であると系譜が示されていた
なお 写真やこの系譜まで 全てネットからの借用です
参考に写真などを入れます
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島津久豊〜中略 〜島津義弘〜中略〜島津久満〜中略〜今上天皇

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