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平成の虚無僧一路の日記

沼津興国寺城 

2019年05月09日 外部ブログ記事
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沼津には、北条早雲が最初に築いたという「興国寺城」がある。しかし、私はこの説には疑問を呈したい。「興国寺城」がはっきり文献に現れるのは、天文18年(1549)。「今川義元が、興国寺の地に城を築くため、寺の敷地田畑をとりあげ、他に代替地を与えて、真如寺と改めさせた」という記録である。(「高白斎記」) つまり、1549年まで、ここには城ではなく興国寺という寺だったのである。そして、今川の城として築かれたのだ。その今川義元が、永禄3年(1560)桶狭間で討ち死にすると、永禄11年(1567)武田信玄が駿河に侵攻してくる。そこで北条氏康は北条氏邦に命じて、興国寺城を奪取させた。その後も武田と北条氏との対立は続き、元亀元年(1570)、武田勢は、興国寺城に攻撃をかけたが、城を守る垪和(はが)親子はよく戦って、これを撃退している。元亀3年(1572)10月3日、武田信玄は諏訪から伊那郡を経て遠江に出、「三方ヶ原」で家康を破り、野田城を落としたが、そこで寿命が尽きた。信玄亡き後、武田勝頼は、信玄の遺訓に反して、駿河に侵攻し、興国寺城も武田氏の持ち城となっている。「興国寺城」が、後北条氏の祖、伊勢新九郎(北条早雲)の最初の城ならば、北条氏は守り抜くであろうが、簡単に手放しているのだ。「興国寺城」が「北条早雲の最初の城」とする説は、江戸時代、もう北条家が滅びた後に言われ出したことである。

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