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平成の虚無僧一路の日記

山本八重子と山川捨松 

2011年06月24日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



山本八重子は欧米には行っていないが、古都京都で、
洋装で出歩き、寝室は日本初のベッド、人力車に
乗る時は、レディファーストで 夫 新島襄より先に
乗るなど、日常生活すべて欧米スタイルで過ごした。

そこで、よく混同されるのが「山川捨松」である。
捨松は、会津藩家老「山川大蔵」の妹。山本八重子
よりは 15歳年下。兄の「山川大蔵」は、慶応2年
(1866年)にロシアからヨーロッパ諸国を外遊している。

そして、戊辰戦後の1871(明治4)年、アメリカへ派遣
される女子留学生5人の中に「捨松」も加わった。

次兄の健次郎もエール大学で物理学を学んでいたので、
時々は会っていたようである。

捨松は バァッサー大学に進学。卒業後、看護学の
勉強をし、甲種看護婦の資格を日本人で初めて取得
した。

1882(明治15)年、捨松と津田梅子は11年ぶりに帰国。
時は「鹿鳴館」時代。薩摩出身の陸軍大臣・大山巌
(42歳)に見初められて、後妻となる。捨松24歳。

大山は旧敵 薩摩人で、戊辰戦争では鶴ヶ城を砲撃した
将校である。山川家はじめ会津側は大反対であった。
 
その反対を押し切って、捨松は結婚を決意する。
陸軍大臣夫人となった捨松は「鹿鳴館の貴婦人」と
呼ばれた。 

捨松は、我が国初の看護婦学校設立に関わり、日本
赤十字社に働きかけ篤志看護婦人会を発足させている。
山本八重子も篤志看護婦として日清・日露に従軍している。

大山巌が日清戦争では第二軍司令官、日露戦争では
満州派遣軍総司令官になって活躍。捨松は、アメリカの
週刊誌や『ロンドンタイムス』に寄稿し、日本の立場を
世界に訴え、後の講話条約を有利にするのに貢献した。

しかし、徳富蘆花の小説『不如帰[ほととぎす]』の
「継母」のモデルとされ、世間から「悪妻」と中傷された。

山本八重子も 徳富蘆花の兄「徳富蘇峰」から「頭と足は
西洋、胴体は日本という鵺(ぬえ)のような女」と非難
された。

徳富蘇峰・蘆花兄弟は「会津人」への差別と偏見が
あったようだ。

捨松の次兄「山川健次郎」は 京都帝大の総長にもなって
おり、同志社の「山本覚馬」との接点もあったと
思われるが、さて、NHK大河ドラマでも「山川捨松」は
登場してくるかしらん。

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