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平成の虚無僧一路の日記

モリソン号事件をつなぎにして 

2019年04月01日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



「日本史」に興味を持ち 深く探っていると、ひょんな ところでつながるから面白い。今回も新発見。 「福沢諭吉⇒ 音吉=モリソン号=高野長英←虚無僧」と つながった。 「モリソン号事件」とは? 1837年(天保8年)、モリソン号が突如浦賀沖に来航した。 ペリーより13年も前に外国船が浦賀に来ていたのだ。 しかしその時は、浦賀奉行が「異国船打払令」に基づき 砲撃を行って 撃退してしまった。 ペリーの艦隊とは違って、モリソン号は「商船」で非武装 だった。(海賊に襲われる危険があるから、大砲ぐらいは 積んでいたと思うがのぉ?)そして、日本人漂流民の 「岩吉、久吉、音吉、庄蔵、寿三郎、熊太郎、力松の7名を 日本に送り届けてきたのだった。それを口実に、日本との 貿易、ならびに宣教師の日本布教の端緒を開こうというのが 目的だった。 何年もかかって、ようやく日本に帰ってきた「音吉」たち にとって、砲撃を受け、上陸さえも拒否されるとは、 なんとむごいことだったろう。 幕府はこの事件も 民には知らせないはずだったが、「音吉」 たち漂流民を送り届けてきたという話は、オランダを通じて 1年後に判り、その噂は、じょじょに広がっていった。 蘭学者 渡辺崋山は『慎機論』を著し、高野長英は 『戊戌夢物語』を著して、幕府の対外政策を批判した。 隠していたことがバレ、「ご政道」を批判された幕府は、 面子にこだわり、崋山や長英らを逮捕、投獄してしまう。 (蛮社の獄)。しかしさすが処刑まではしなかったが、 長英は、放火騒ぎを起こして、牢破りをし、顔を薬品で 焼いて人相まで変え、潜伏したのだった。 虚無僧になれば顔を隠せたのに。士分ではなく、町医者 だったために拒否されたとか。ホントは、遠島破りや 無宿人もいたのだから、高野長英の話は「虚無僧」を 権威づけるための後世の作り話かと私は考えている。

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