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平成の虚無僧一路の日記

福沢諭吉の「勝海舟」批判 

2019年04月01日 外部ブログ記事
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「八重の桜」で「勝海舟」が「西郷吉之助」と談判して 「江戸城無血開城」が 叶ったかのように描いていた。 しかし、江戸の無血開城は、勝以前に「山岡鉄舟」が 駿府(静岡)まで行って西郷と談判しており、さらに 皇女「和の宮」や島津家から輿入れした「天璋院 篤姫」も嘆願書を出していた。また「八重の桜」でも きちんと描かれていたが「山本覚馬」の進言も 西郷に影響を与えていたのだった。 しかし、それを「勝海舟」は、「自分一人の功績である」と、 明治政府に売り込んで、新政府に出仕したことにより、 勝に対する評価は下げられた。 福沢諭吉は、中津藩士から「幕臣」になっており、明治に なって新政府から再三の要請があったにかかわらず、 「武士は二君に仕えず」と、官吏になることを拒否した。 福沢諭吉は「やせ我慢の説」で、「勝海舟」は、「江戸を 無血開城」させた功績は認めるが、明治になって新政府に 仕えたことで、「やせ我慢」の日本的精神が損なわれる こととなり、日本の将来のために よろしくない」と 説いたのである。

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