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平成の虚無僧一路の日記

九皐 (きゅうこう) 

2011年06月20日 外部ブログ記事
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『菰野町史』【切畑村文書(三重県三重郡菰野町切畑)】の中に
「留場証文」があり、「鈴法山 普済寺 看守 九皐(きゅうこう)」の
名が見える。

「留場」というのは、虚無僧寺の横暴にたまりかねた村々が、
「毎年一定の金や米を納めるので、虚無僧は来ないでくれ」と
いう取り決めを交わした区域のことだ。

虚無僧は所詮、無頼の浪人共であるから、虚無僧寺と云っても
正式の「寺」ではなかった。得度受戒した正式の僧侶がいる
わけではないので、その寺の主は「看守(主・手)」と言った。

切畑村は,留場料として銀2匁2分,打廻料に銭100文。
証文切替料と筆墨紙料に 金二朱を普済寺に納めたようである。

こうした留場を何箇所が持つことによって、虚無僧は生活を
保証されるようになり、ますます托鉢などせず、飲む、打つ、
買うの無頼人に堕落していく。 それで、社会の迷惑人として、
明治政府は「普化宗」を廃宗とし、尺八を吹いて門付けする
ことも禁じたのだった。


その虚無僧寺「普済寺」の看守の名が「九皐(きゅうこう)」と
云った。

私は「九孔尺八」で「吸江流」を名乗っている。「吸江(きゅうこう)」は、
「吸尽す、江(長江)の水」という禅の公案に由来している。

そしてもうひとつ「九皐」は、【詩経】に「鶴九皐に鳴き、声天に
聞こゆ」というのがある。「九皐」は「奥深い沢」。

「鶴は深い谷底で鳴いても、その泣き声は天に届く」。

つまり、賢人は身を隠しても、その名声は広く世間に知れ渡る」と
いうたとえだそうだ。

私も、名声が世間に知れ渡りたいと、いつまでも欲を捨てきれずにおる。

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