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老いてなお青春(マラソンへの挑戦)

同人誌『まんじ151号』投稿: 「私の伊達政宗像を訪ねて(その3−?)」 

2019年02月01日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



同人誌「まんじ151号」(平成31年2月発行)に、拙ブログ「老いてなお青春」から、伊達政宗に関する記事について、抜粋投稿(5部構成を予定)しましたのでここに掲載します。題 : 『私の伊達政宗像を訪ねて(その3−?)』【秀吉の小田原陣】 天正十七年(一五八九年)十一月二四日、秀吉は小田原北条氏に宣戦布告の朱印状を発した。「北条こと、近年公儀を蔑ろにし、上洛する能はず、殊に関東に於いて、我意に任せ狼藉の条、是非に及ばず、(中略)然處、氏直天道の正理に背き、帝都に対し奸謀を企て、何ぞ天罰を蒙らざらん哉、(中略)氏直首を刎ぬべき事、踵を廻らすべからざる者也」 祖先が小田原北条の家臣という菊池寛が、著書『小田原陣』に「実に秀吉一流の大見得である。勅命を奉じて天下を席捲せんとする其の面目が躍如として居る」と書いていたが、秀吉の私的領土紛争を禁じた惣無事令は、天皇と関白の権威を笠に、強大な軍事力による一方的な平和の強制であり秀吉の得意満面な猿面が浮かんでくる。 天正十年(一五八二年)本能寺の変で信長が横死すると、織田領になっていた武田遺領の信濃・甲斐・上野三国は無主の空白地帯となり、家康と北条氏直が三国を奪い合う天正壬午の乱は、信長の次男信雄が和睦を仲介して、氏直に家康の督姫を娶らせ、甲斐と信濃を家康に、上野を北条に切り取り次第とする条件で講和させた。 その織田信雄が、明智光秀を討ち賤ケ岳で織田家筆頭柴田勝家を破り信長後継の地位を勝ち取った秀吉に安土城を追われると、東海の家康、関東の氏直、北陸の佐々成政、四国の長曾我部元親と反秀吉包囲網を組成した。 天正十二年、織田信雄・家康の連合軍が、尾張の小牧長久手で秀吉と戦い、家康は小田原北条に加勢を要請したが、秀吉に与する下野の佐竹が北条を牽制して北条の家康加勢を阻止、関東は北条・徳川連合と秀吉・佐竹連合が対立する構図となり、南奥羽で蘆名・佐竹連合と戦う政宗が、やがて北条と徳川に接近したのも必然である。 家康は、長久手の戦いで秀吉軍に一旦勝利するが、同盟する信雄が、領地の一部譲渡を条件に秀吉と講和したため、大義を失った家康は、やむなく次男秀康を秀吉の養子に送り和睦、天下の趨勢は秀吉に決した。 翌十三年七月に関白宣下を受けた秀吉は、十月に九州地方に惣無事令を発令、十五年に豊後大友氏を侵略する薩摩島津氏を倒して九州を平定すると、踵を返して東国を制覇するため、信長と対等な同盟を結び東国を任されていた家康を懐柔すべく、実妹を家康の正室に、実母を人質に岡崎に送って家康を上洛させ、諸候の前で臣従を誓わせた秀吉は、十五年十二月に関東奥羽地方に惣無事令を発令、家康にその監視役を託した。 秀吉の私戦停止命令の惣無事令は、領土紛争の裁定と領土画定の権限を有する唯一の存在であることを天下に宣したもので、全国の諸大名が上洛して秀吉に服属を表明するなか、奥羽の政宗と小田原の北条は、秀吉の上洛の要請に応じなかった。なぜだったのだろうか。 小田原北条氏は、幕府政所執事伊勢氏の出で、戦国大名の嚆矢とされ、相模国を平定した北条早雲が始祖、二代氏綱が武蔵国を併合、三代氏康と四代氏政がほぼ関東全域を支配下に、最大版図は二四〇万石に達した。五代氏直は、祖母に駿河今川義元の妹、母に甲斐武田信玄の長女、正室に三河徳川家康の次女、まさに東国の名だたる戦国大大名の華麗なる血統の貴公子であった。 十六年五月、家康は頑なに上洛を拒絶する娘婿の氏直に起請文を送り、上洛を拒否するなら督姫を離別させると通告、北条氏存続のための氏直上洛を強く要請した。「関八州の太守」の誇りを持つ北条氏だが、対秀吉強硬派の氏政・氏照と和平派の氏直・氏規が路線対立する中、若き当主氏直は、家康の最後通告を受けて、八月にようやく叔父氏規を代理上洛させた。 上洛した氏規は、懸案の沼田領有問題の裁定を秀吉に求め、氏政・氏直父子の上洛を約したが、上洛が履行されないまま、十七年十月二四日に鉢形城主北条氏邦配下で沼田城代の猪俣邦憲が秀吉の領土裁定で真田領となっていた名胡桃城を奪取、これが豊臣政権の裁定に対する侵害と見做され、秀吉に北条征伐の大義名分を与えてしまった。かくして冒頭の宣戦布告朱印状が発せられた。 十一月二四日付け秀吉の宣戦布告状を受けた北条側の反応はいかに。氏直の叔父で上洛して豊臣方との関係調整に尽力していた氏規は、十一月晦日に家康の重臣で個人的に懇意だった酒井忠次に宛てた書状(古証文五)で兄氏政の態度を、是非なき模様、はや殊の外の末期に罷り成り候、と書き送り、秀吉の沼田裁定に不満を持つ強硬派に押し切られてしまったと嘆いていた。 当主の氏直は、十二月七日に豊臣方使者富田一白と津田信勝に宛てた北条氏直條目(武家事紀)で、父氏政の上洛は予定通り正月中に京着のつもりだったが、秀吉が家康を上洛させた折に生母を三河へ人質にしたような保障がなければ安心して上洛させられないと、言外に、北条は徳川より格上、秀吉は北条にも人質を入れて上洛を懇請すべきと主張、関八州の太守としての自負心が見えてくるが、時勢の見えない思い上がりではないか。 更に氏直はその二日後に家康に宛てた書状(古証文五)で、秀吉の御腹立の御書付、誠に驚き入り候、名胡桃務めて当方より乗取らず候、と弁明、氏政の上洛を正月か二月に延期して欲しいと、家康に執り成しを求めている。秀吉の宣戦布告に驚いたとは、秀吉の野心と本気度を見誤っていたのだろう。想定以上に強硬な秀吉の最後通牒に、北条方の狼狽振りが見えてくる。そして名胡桃城の奪取に関与していないとは、暴走する過激派を統率できていなかったことを告白しているようなものではないか。 氏直の父氏政も、同日付け家康宛て書状(古証文五)で、氏直に表裏はない、と秀吉への執り成しを求めている。氏直の書状に添えられたのだろうが、対秀吉強硬派の旗頭と思っていた氏政の弱腰は意外だった。 対秀吉徹底抗戦を最後まで主張したのは誰なのだろうか。氏政の弟で氏直の叔父氏照は、関東への惣無事令に、秀吉の来攻を早くから予測、領内に陣触を発し、軍備と兵糧と妻子人質を命じ、居城八王子城の改修を進め、名胡桃城を奪還した猪俣邦憲に防備強化を指示、奥羽の政宗に頻繁に出状して取り込みを画策、若き血気盛んな政宗は、そんな氏照の戦略に載せられたのかもしれない。 天正十八年一月、家康は後嗣の秀忠を人質に上洛させ秀吉への臣従を明らかにして氏直と事実上断交、三万の兵を率いて小田原攻めの先鋒部隊を出陣させた。氏直もまた大動員令を発し、小田原籠城の態勢固めを進め、五万四千の精鋭で秀吉の二一万の大軍を迎撃、主要街道の山岳支城に秀吉軍を分散させ、本城から撃って出て各個撃破して遠征軍の兵糧枯渇を狙う長期籠城戦に入った。
【小田原陣前夜の政宗】 秀吉の小田原北条攻めの前年(天正十七年)六月五日に会津蘆名氏を摺上原の戦いで破った政宗は、十一日に会津黒川城へ入城した。秀吉の私的領土紛争を禁じた惣無事令を無視して、秀吉に恭順する佐竹氏と蘆名氏を攻めたうえに蘆名氏を滅ぼし、秀吉の逆鱗に触れた政宗は、未だ服従しない北条氏を倒した次なる秀吉の攻撃目標となった。まさに伊達家存亡の危機である。 政宗の秀吉宛て最初の音信は、天正十五年九月に九州征伐を終えて京に戻った秀吉への馬の贈呈だった。年末に予想された奥羽関東の惣無事令への修好であろうか。翌十六年四月の前田利家の書状(同文書三六五)が秀吉への鷹献上と山形最上義光との和睦を勧めてきた。政宗は九月に秀吉所望の鷹を献上し、最上・佐竹との和談を報告する使者を上洛させた。翌十七年正月に下着した使者が、秀吉の御書と富田一白書状(同文書三九五)を持ち帰り、鶴取之鷹の献上と政宗の上洛を促してきた。 政宗は、秀吉と側近に書状と贈答品を贈り、好を通じながら上方の情勢を収集、天下人関白秀吉の勢威に精通していたが、京から遠く奥羽の地にある政宗にとって、秀吉はまだ差し迫った脅威ではなかったのだろう。 秀吉が所望してきた目赤鶴(タンチョウ)とその鶴を捕えた鷹を献上した礼状(同文書四二四)に添えて太刀「?国行」が政宗に贈られてきた。政宗が後に遺言で秘蔵せよと名指した四振りの一振りで、名刀を贈る秀吉の奥羽の片田舎の若き政宗に向けた好意が窺えてくる。 しかしこの秀吉の礼状出状(六月九日)の四日前に、政宗が秀吉の惣無事令を無視して摺上原合戦で会津蘆名軍を破っていたことを、京に居る秀吉は知る由もない。 政宗は会津黒川城に入って五日目の六月十六日、譜代修験の良覚院を上洛させ、秀吉麾下の冨田一白・前田利家・施薬院全宗を介して蘆名討伐の主旨を報告したが、既に越後上杉景勝から通報を受けていた秀吉は、政宗の会津乱入罪を詰責、兵の撤退を命じ、更に上杉景勝と佐竹義重に政宗討伐を命じていたのである(佐竹文書)。 上杉景勝に遅れて政宗から蘆名討伐の報告を受けた秀吉は、七月十三日に富田一白、二一日に前田利家と施薬院全宗に、それぞれ政宗に上洛して弁明せよとの催告状(伊達文書四二五〜四二七)を出状させた。 富田一白は「兎角早々殿下様へ御入魂之御理可然存候」と訴え、秀吉の代官として関東へ下向する旨を伝え、利家は「以私宿意不止鬱憤之事、御不審被思召之旨」を、施薬院は「私之以宿意、今度及一戦、被打果、至会津居住之儀、上意御機色不可然候」と伝えており、政宗に面目を潰された天下人秀吉の怒りはいかばかりだったろう。 政宗は秀吉からの催告状に対して、越後上杉と手切れして上洛が延引したこと、会津蘆名が父輝宗の代の弟入嗣約束を違えて佐竹と組み、奥州諸侯を誘い伊達を討ち果さんとしたため、親の仇でもあり奥羽探題として会津・仙道を討ち果たしたと弁明(同文書四三一)した。 秀吉に弁明しながら、政宗は一方で小田原北条氏に秋風を送っていた。伊達治家記録(以下治家記録と略す)十七年七月二八日の条に「先頃、北条殿氏政父子へ飛脚便差進セラル。今日帰参ス。北条殿ヨリ使僧ヲ副ヘラレ、御腰物贈進セラル。会津ヲ乗取リ給フ御祝儀ナリ」とあり、政宗は北条氏から蘆名討伐のご祝儀を受けて、秀吉と北条の双方に二股外交を繰り広げていたのである。 治家記録の八月二九日の条に「最前、相州北条殿へ飛脚進セラル。以後重テ御使僧ヲ以テ、佐竹義重ト御事切ニ及バルベシト思召サル。互ニ仰合サレタキ旨内々仰進セラル」とあり、帰着した使僧の政宗宛て北条氏照の書状(同文書三八二)について、欄外に「北条氏としては目前の敵(佐竹氏)であるから、貴国(伊達氏)が事を起すなら、何分とも弓矢の盾となるであろう。貴国(伊達氏)と当国(北条氏)とは互に気心を通じているから、御本意(戦を開く本心)を遂げようとするときに、踵を廻して約束を守らないようなことはしない」と注記あり、佐竹を北と南から挟撃する共同戦線を約したのである。 ここに逸話がある。会津黒川城に入った政宗に家臣が城の修築を進言すると「欝々トシテ久ク居玉フベキ所にアラズ」と答えたという。政宗にとって黒川城は一時の居城に過ぎず、政宗の目は関東に向けられており、秀吉が東征してくるまでの間に、関東を制せんとする野望を追い求めて両面策戦に賭ける政宗の強かさが見えてくる。 危うい二股外交を巡らす政宗に、京都の秀吉側近から蘆名討伐の弁明を求める上洛催促状が次々に届けられた。 天正十七年十一月から年末まで大日本古文書の伊達家文書に収録されている書状だけで十通、内十一月二六日付の書状は、秀吉が北条氏に宛てた冒頭の小田原征伐朱印状を示し、十二月五日付の三通は、秀吉の来春出陣予定を知らせて、政宗の早期上洛を促してきた。 秀吉の厳しい叱責と上洛の催告に弁明を繰り返しながら、宿願の仙道(福島県中通り)制覇を進め、十月に須賀川の二階堂盛義を倒すと、石川昭光と岩城常隆が、十二月には白河の白川義親が政宗の麾下に加わり、陸奥と出羽の南半分を手中に収め、石高は一一四万石に達した。 秀吉に政宗攻略を命じられた佐竹義宣は、十二月二六日付書状で石田三成に在京中の上杉景勝に会津出兵させるよう催促、更に景勝の家臣直江兼続に出兵を要請して翌十八年一月八日に白河に出兵した。 石田三成は、蘆名旧臣の山内氏勝に、三月一日に北条征伐の軍が京を出立して北条成敗後に黒川に乱入して政宗の首を刎ねる旨の書状を送り、これを受けた山内氏勝は意を強くして上杉家臣と組み、南会津で政宗配下と戦を繰り広げていた(会津四家合考)。【伊達と北条の関係】 伊達と北条は歴史的にどんな関係にあったのだろう。 大日本古文書(伊達家文書編)の収録書状を見ると、永禄三年(一五六〇年)の伊達晴宗(政宗の祖父)宛て北条氏康(氏直の祖父)の書状(伊達家文書二三〇)は初信挨拶の「雖未申通」で始まり、永禄十二年の伊達輝宗(政宗の父)宛て北条氏政(氏直の父)と氏照(氏直の叔父)の書状(同文書二七〇と二六九)は、駿河浸入した武田信玄に勝利し越後上杉と同盟締結した旨伝えていたが、半年ぶりの音信で親密な関係ではまだなかった。 天正六年(一五七八年)の輝宗の重臣遠藤基信に宛てた北条氏政の書状(遠藤文書一九六四)に「無二無三可申合候、悉皆其方御馳走任入迄候」とあり、馳走とは奔走の意味、伊達家外交担当家臣に主君への周旋を依頼しており、まだ両家首脳が入魂ではなかった証しである。 当時の小田原北条氏は、関東で佐竹氏と緊張を深めており、仙道の白川氏と会津の蘆名氏が北条と手切れして佐竹に接近する状況下にあり、北条は佐竹の背後の伊達に接近を図ろうとしたのだろうが、輝宗の妹が佐竹義重に嫁して伊達はまだ佐竹と懇意な間柄にあり、当面の敵が相馬氏の伊達が、北条の申入れに応じた気配はない。 輝宗は、かねてより信長に鷹や馬を献上して好を結び、信長の威光を奥州覇権への足掛かりにしていた。 伊達家文書に信長の輝宗宛て書状が三通収録されおり、天正元年の鷹献上の礼状(伊達家文書二九一)で、足利将軍を供奉して上洛、信玄の病死と朝倉義景の刎首を告げ、関東を成敗する際の協力を求めており、天正五年七月二三日付書状(同文書三〇二)で、上杉謙信討伐の柴田勝家、前田利家・秀吉連合軍への参陣を命じている。 天正十年六月二日、信長が本能寺で殺される事変が起きた。治家記録の性山公(輝宗)編の天正十年十二月の条に、遠藤基信が北条氏照に持参した書状がある。「此年六月前右大臣信長公御生害以後、上方騒動、諸国共ニ不静。故ニ北条殿ト前々御懇切ノ因ヲ以テ、以後ノ義御隔意ナク互ニ仰合レルヘキ事ヲ謀リ給ヘルナリ」、信長の後ろ盾を失った輝宗は、織田の残存勢力を関東から排除して勢力を盛り返してきた小田原北条と改めて緊密にする必要を感じたのであろう。 この書状に対して、翌十一年三月二日付書状(遠藤文書二五〇七)で、氏照が基信に旧冬の書状到来を謝して氏政父子に上申したことを伝え「貴国当方無二御入魂候様」に輝宗への仲介を依頼し関東の情勢を報じてきた。 同十一年四月、信長の命で対上杉戦に共に越後介入していた柴田勝家が、賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗れると、懇意にしてきた信長と勝家を失った輝宗は、秀吉中心の上方の新しい情勢に対処するため、伊達氏を中心に北関東・南奥州の静謐を維持せんと岩城常隆に呼び掛けた。 氏照が基信宛てに十二年三月二〇日付書状(同文書二六五五)で徳川と北条との縁組を伝え「如前々輝宗当方被仰合、貴辺御馳走、此節ニ候」と、佐竹と敵対する北条が、伊達に奥州側からの佐竹牽制を依頼してきた。  十三年二月七日付書状(遠藤文書二七七九)で氏照が基信に、伊達からの音信がなく前年十月に家督相続した政宗との親交斡旋を依頼してきた。基信は輝宗の隠居に合せて第一線を退き、外交を若き片倉景綱に託していた。 新当主政宗と北条の初信は、六月十一日付け氏照の政宗宛て書状(片倉文書二八一六)である。初信挨拶の雖未申通があり、近年は道不自由のため無音だったが、関東表如存分静謐、如前々可被仰合事、可為本望候とある。 織田・北条・徳川と音信してきた輝宗と基信の大局観が、若くして家督を相続し近隣豪族との紛争に忙殺される政宗には、まだ育まれていなかったのかもしれない。【伊達と北条の同盟成立】 それでは伊達と北条の同盟はいつ成立したのだろうか。歴史学者小林清治氏が著書「奥州仕置の構造」で、年未詳の二月十三日付で北条氏直が政宗に宛てた初信の書状(伊達家文書三四四)に着目した。「未申通候処、預御札候、誠本望候、抑去比会津口有御出勢、被任御存分由、尤肝要至極候、如御紙面、自前代申合之間、於自今以後者、相応之儀、毛髪無疎意、無二可入魂申候、御同意可為本懐候」とあり、政宗からの初信を受けて、氏直が北条氏当主として初めて政宗に出状し、前代の輝宗期の「申合」を述べた政宗の書状に、氏直も同意して更なる無二入魂を申し入れたのである。 この年未詳の氏直書状は、何年の出状なのだろうか。一緒に届けられた二月十六日付の片倉景綱宛て氏照書状(片倉文書三〇五六)に「旧冬参着、即刻及御報候間、定参着可申候」とあり、前年冬に届いた書状への返信だとすると、氏直の書状にある「抑去比会津口有御出勢」は、前年冬に会津口であった戦い、即ち、天正十三年十一月の人取橋合戦のことであり、氏直の年未詳の二月十三日付書状は、十四年二月ということになる。 人取橋合戦は、十三年十月八日に父輝宗が二本松城主畠山義継に拉致されて高田原で義継諸共父輝宗を殺してしまった政宗が、弔い合戦で義継の遺児を擁して籠城する二本松城を包囲した際、二本松城畠山を救援する佐竹・蘆名連合軍三万の大軍と人取橋で合戦に及び、七千の伊達軍は壊滅的な敗北を喫し、政宗は辛うじて戦線を脱出、決して忘れ得ぬ屈辱の戦いとなった。人取橋の敗戦で佐竹・蘆名連合軍の脅威を実感した政宗は、佐竹を牽制する必要を痛感、佐竹の背後にある北条氏直に初信を出状して先代からの申合だと呼びかけ、この二月の氏直の返信をもって、反佐竹・蘆名の伊達・北条同盟が確定した、と小林清治氏は推定している。 伊達と北条が同盟を結んで以降の両首脳間の発受文書を「戦国遺文」にみると、天正十四年が十八通、十五年が三通、十六年が十五通、十七年がゼロ、十八年が一通のみである。同盟初年の十四年はさすがに多いが、十五年の激減は、秀吉の九州征伐と関東への戦闘停止命令で南奥羽に和平情況が広がった影響であろうか、 十六年四月以降に交信は再開するが、北方戦線で大崎氏・最上氏相手に苦戦(大崎合戦)、南方戦線で蘆名氏・相馬氏相手に苦戦(郡山合戦)、四面楚歌の厳しい時期であり、両家の交信は、伊達側が発信して北条側が返信する、伊達側の積極的な外交姿勢に変わっていた。 そして十七年以降、交信が再び激減したのは、秀吉の関東奥羽への脅威が現実になったからであろうか。 六月五日に会津蘆名氏を摺上原の戦いで破った政宗に宛てた氏照の七月二九日付け書状が大日本古文書(伊達文書三八二)にある。政宗から南蛮笠を贈呈されたこと、佐竹は北条の敵であり連合して当たるより方法がないと訴え、更に氏照は、同日付け原田宗時宛て書状(同文書三八三)で、これまで交渉してきた片倉景綱の態度に業をにやして政宗の右腕といわれる原田宗時に政宗への執り成しを申し入れてきた。政宗が和平派の景綱の進言で秀吉に接近しようとしていると警戒したにちがいない。 天正十八年唯一の一通は、正月十七日付政宗宛て氏直書状(同文書四六五)である。「(全文)御出陣之由風聞、依之以使申達候、具御返答可為本望候、仍腹巻一領甲一刎進之候、猶令附与月斎口上候、恐々謹言、」とあり、政宗出陣の風聞に接して氏直が専使を以て音信、進物を呈し、政宗からの返答を要望した。寒さ用に腹巻を贈るとは氏直の優しい気配りである。 一月八日に佐竹が白河に出兵して、白河城主白川義親が政宗の出馬を催促、政宗の佐竹出陣の風評が関東に広がったのだろう。氏直はこの機に佐竹を手に入れる好機到来だと政宗に出馬を誘っている。前年十一月二四日付の秀吉の北条征討朱印状を受けた氏直が、秀吉の大軍を迎え撃つべく政宗に後方の佐竹攻撃を切望したのだろうが、この氏直の誘いに政宗が何と返信したか、対佐竹の軍を起したか、書状も治家記録の記載もない。 同盟を結ぶ氏直が政宗に求めたものは、秀吉の大軍を共に迎え撃つことではなく、北条の後方を脅かす佐竹への牽制であり、素より政宗に秀吉に敵対する意志は毛頭なく、会津蘆名を討伐した弁明を繰り返しながら、北条と共同戦線を組んで佐竹を攻略して関東進出を目指す危険な両面策戦を展開していただけなのかもしれない。 家康が秀吉に屈服して氏直と絶交、氏直が小田原城籠城の本格的準備に入った、等の情報が政宗に届いたからなのか、政宗の微妙な変化を窺わせる書状(同文書四六四)がある。相馬境の守将中島宗求に宛てた天正十八年一月十四日付書状「当春に南口(佐竹)へ出馬、春夏の間にも相口(相馬)へも打ち廻す」の追而に「上口与小田原御間不通相切之由(中略)猶諸口弓矢、當方如存分可有之由覚悟ニ候、只當年之弓矢、いかがたるへく候や」と、今この情勢下で戦線を広げていていいのだろうか、慎重にならなければ、と揺れる心中を漏らしていた。親秀吉派の佐竹と最上に南北から挟撃されている政宗は、もはや南攻どころではなくなっていたのだろう。 正月十七日の政宗宛て氏直書状以降を治家記録にみると、三月三日に「相州北条ヨリ進物到来」、六日に「相州北条の使参着ス」、政宗が上洛を決意した二五日以降の四月四日に「小田原ヨリ使僧キタル。御前ヘ召寄セラレ小田原ノ様子聞セラル」と、書状交信の記載はないが、五月九日の小田原参陣出立の直前まで、北条と使僧による交信が続いてはいたようである。 大日本古文書に四月二〇日付北条氏長の書状(同文書四九九)がある。仙台市博物館の資料閲覧カードが成田氏長書状と訂正されており、もし成田氏長だとすると、二〇一二年に映画化された「のぼうの城」の忍城主で、氏長本人は小田原城に籠城、でくの坊と呼ばれた野村満斎演じる守将長親が、石田三成の水攻めに農民を率いて最後まで忍城を守り抜いた痛快な映画が思い出される。 この氏長書状包紙に「天正十八年四月二〇日北條氏長より伊達参る宛、仙道御出馬被属御本意云々書状壱通」とあり、天正十八年だとすると、秀吉の大軍に包囲された小田原城内の成田氏長に、政宗が出状して交信していたことになり、政宗の大胆さには度肝を抜かれる。 治家記録の四月二〇日の条に「小田原ヨリ使僧参着、上方唱ヘノ義共言上ス。此以後ノ日記闕失ス。故ニ事々委曲不知者多シ」とあり、治家記録が編纂された約百年後の平和な時代に、歴史の敗者北条との交信を公開するに憚れる思いが編者にあったのかもしれない。【政宗の小田原参陣】 天正十八年二月二日付け前田利家書状(同文書四七二)が「上洛せざるを、御逆鱗浅からず。北条成敗のため、家康が東海道の先鋒、真田昌幸と上杉景勝が上州口の先鋒、利家も信州から上野に出勢する、政宗も会津口より下野に出勢するように」と、従前の上洛せよから北条を攻撃する忠勤が肝要との忠告に変わってきた。北条との同盟を切って秀吉軍に参陣するか、政宗は岐路に立たされたが、政宗は動かなかった。まだ決めかねているのか。 三月十三日に京都から斉藤九郎兵衛が二月二一日付け七通の書状(同文書四七六〜四八〇)を持ち帰ってきた。書状内容がこれまでの政宗の早急な服属を促すものから「早速被成御出陣、御忠節候者、万事可相済之由候(上郡山仲為・和久宗是連署)」「御忠節次第、会津之儀者不及申、國も可被参之旨候(木村晴久)」と、小田原参陣の忠節によっては、政宗の会津討伐を不問に付し、会津は申すに及ばず更に加封もある、という柔軟なものに変わっていた。秀吉は奥羽の雄政宗を味方に付けて北条を孤立させることが得策と考えたのだろうか。 三月一日に秀吉が大軍を率いて京都を出陣したとの報に、降伏を意味する小田原参陣か、徹底抗戦して破滅するか、悩みに悩んでいた政宗は、この秀吉の柔軟路線への心変わりで小田原参陣を決断したのだろうか、三月二五日の重臣会議で参陣を最終決定、四月六日に後詰として黒川城を出馬する旨を、翌二六日に秀吉の元へ送った。 小田原参陣出立前夜の四月五日、母義姫による政宗毒殺未遂事件と政宗による弟小次郎刺殺事件が起きた。 この二つの事件については、次稿で詳述するが、この事件のため政宗の小田原参陣の出立が遅れたといわれ、四月十五日に小田原に向け、南会津の大地(大内)まで進出したが、敵地の北条領を通過することが不可能とみて、黒川城に引き返した、と治家記録にある 南会津からのルートは、これまで同盟を結んでいた北条領、むしろ秀吉の命を受けて佐竹と連携して伊達氏を攻撃する越後の上杉領を迂回する方がリスクは大きいはず、石田三成の扇動で蘆名旧家臣の叛乱が続く南会津を避けたのだろうか。あらかじめ、後の遅参の言い訳のために企てられた出陣の擬装だったとする説もある。 黒川城に戻った政宗が小田原に向けて再出発したのは五月九日、なぜ更に一か月も遅れてしまったのだろうか。小田原城攻防戦の推移を窺っていたのか。小田原参陣の留守中に相馬と佐竹が攻め込んでくる国境の防衛態勢を手配していたのか。この遅れが秀吉を硬化させてしまったのだろうか、五月初めに届いた浅野長吉・木村清久・和久宗是の書状には、小田原への早期参陣だけでなく、蘆名氏から奪った会津領の放棄が追加されていた。 四月二〇日付浅野長吉の政宗宛書状に「一人も不残可被作干殺御調儀候之條、落去不可有程候、就中会津ノ儀、先書具如申入候、急度、殿下様へ可被上渡事専一候、以其上、此表ヘ早々御出馬可目出候」(同文書五〇〇)まさに最後通告である。四月三日に小田原に着陣した秀吉は二一万の大軍が小田原城を包囲する陣立を眼下に、もはや政宗を味方にさせる必要はなくなっていたのだろう。 蘆名から奪取した会津領を安堵するという秀吉の条件緩和に小田原参陣を一旦は決断した政宗だったが、会津領を取り上げるとなっては、話は違うと困惑したに違いない。政宗の思惑は外れたが、時すでに遅く、政宗に残された選択肢は、服従するか自壊するか、片倉景綱の参陣派と伊達成実の敵対派に家中が二分する中、政宗は伊達氏存続のため、恭順参陣を選ぶしか道はなかった。 政宗は、秀吉の会津黒川城攻撃という最悪の事態を想定した和戦両様の備えを済ませ、主戦派の猛将伊達成実を会津の守将に残し、和平派の側近片倉景綱と譜代家臣及び会津岩瀬の降臣ら百騎ばかりで五月九日に会津黒川城を出立、一旦米沢城に立ち寄り、上杉領の越後・信濃を経由して小田原に着いたのは六月五日だった。 北条方諸将が守る東海道箱根峠の山中城・足柄城と東山道碓氷峠の松井田城は既に陥落して、韮山・鉢形など各支城も落城間近、小田原本城の大包囲も二か月が経ち、石橋山に城を築き淀殿ら愛妾や千利休を招いて在陣諸将を慰労する最中で、秀吉の北条攻めはほぼ決着がついていた。氏直の降伏開城はその一か月後である。 政宗は箱根山中の底倉に宿所を命ぜられ、六月七日に秀吉より浅野長吉ら五人が宿所に遣わされて政宗に対する遅参と蘆名攻略の問責があり、政宗は「大内備前、先祖より家中たるに逆心し、某打出て退治す。備前に畠山義継が加勢、父輝宗不慮死す。某義継を打果し二本松城を攻む。佐竹・蘆名・磐城ら某領地に攻入り、度々戦に及び、終に会津を攻取るが、最上・大崎・相馬が敵対、上洛御礼の隙なく、疎意となった旨」を弁明した。 翌々の九日、秀吉陣所普請場で秀吉に対面した政宗は「水引ヲ以テ御髪ヲ一束ニ結ハセラレ、異風ニ見エ玉フ」と治家記録に記されている。有名な謁見シーンである。この時政宗二四歳、秀吉五五歳、若き政宗の打った度胸ある大芝居と悪びれない物申振り、尋問後に利休の茶を所望した素養とその器量が、秀吉の心証を好転させ、政宗に好感を抱かせたのだろう、政宗そして伊達家は救われた。そしてその時、政宗の関東への夢は潰えた。 遅参した政宗は、惣無事令違反の理由で、父を犠牲に蘆名氏との死闘で得た会津領を没収され、実質一一四万石から戦前の七二万石に減封、居城を会津黒川城から米沢城に戻された。秀吉の奥州仕置である。政宗はさぞ忸怩たる思いだったろう。しかし、この秀吉との対面が、のちに政宗を奥州の一大名から全国区の大名に引き上げた、いわば政宗の人生の転機となったのである。 七月五日に小田原城を開城、十一日に前当主の氏政と北条一門筆頭の氏照、開戦の責として宿老の松田憲秀と大道寺政繁の四人が切腹、氏直は家康の周旋で助命され高野山に蟄居となり、かくして秀吉の天下統一は完遂され、戦国時代は終焉した。【小田原に政宗を訪ねて】 小田原はいつも東海道新幹線で通過するだけ、小田原駅を過ぎた左側車窓に見えてくる小田原城が、江戸時代に改修された天守閣で、小田原陣当時は車窓右側に広がる丘陵の八幡山古郭が中心だったとは知らなかった。 小田原城は、十五世紀中頃に大森氏が築いた城が前身で、北条早雲を初代とする小田原北条氏の本拠となって以降、関東支配の拠点として整備拡張されてきたが、秀吉の小田原征伐に、小田原城下町を取り囲む総延長九キロの総構えが構築され日本最大級の城郭になったという。 総構えは、相模湾に注ぐ東の山王川と西の早川の間の海岸線二キロを底辺に、北西の丘陵地帯に向けて約二キロ、釣鐘形に小田原城下町を取り囲む壮大な土塁と空堀が築かれ、籠城による長期戦で秀吉の大軍を迎え撃った。 本投稿を機に八幡山古郭に北条の兵どもが夢の跡を訪ねたい、そして小田原陣に遅参した政宗の足跡を辿りながら、秀吉の築城した石垣山一夜城も訪ねてみたいと、平成三〇年十二月八日、小田原まで足を延ばしてみた。 埼玉から東海道線直通で約二時間、十一時に小田原駅に下車、駅前商店街裏通りの北条氏政・氏照墓所に直行した。氏政夫妻と氏照の苔生す三基の五輪塔が並び、墓前の平たい石の上で二人が切腹したという。関八州の太守という自負心に身を滅ぼしたのか、秀吉への抵抗がどこまで本気だったのか、秀吉の天下統一の見せしめになったのか。戦国武将の悲劇に安寧を祈るばかりである。 会津を出立した政宗が小田原の家康陣地に直行したとする説があり、駅前の市民交流センターでレンタサイクルを借りる際、歴史ボランティアガイドさんに、政宗が甲府経由で家康陣地に直行したらしいが、どんなルートだったんでしょうね、と尋ねると、小田原近郊の地図を広げて、小田原の街道口は、西からの板橋口と東からの江戸口と北からの井細田口の三つあり、家康陣地が小田原包囲網の東側にあるから、甲府から富士山と箱根外輪山の東麓を回り、足柄峠を越えて甲州道を井細田口から小田原に入ったんではないかと教えてくれた。私が推測した甲州街道から八王子経由のルートはないらしい。 小田原に政宗を訪ねる私の旅は、まずは井細田口から始まった。電動自転車は快調だが、大まかな観光案内図に道に迷いながら、一〇分程で井細田口に通じる三叉路の広小路に出た。会津から遠路五〇〇余キロをようやくここまで辿り着いた政宗は、大きく息を吐き、兜の緒を締め直し、家康の陣地へ急いだにちがいない。 政宗は、秀吉側近の浅野長吉宛に五月二四日の書状(浅野家文書)で「甲府に一両日中令滞留、御本陣へ被打帰事可待入候」、更に五月二八日の書状(杉浦家文書:埼玉県立文書館所蔵)で「昨二七日に甲府に着いたので武州口に出陣している浅野長吉に小田原に帰陣して秀吉との面会を執り成して欲しい」と書き送っている。政宗は頻繁に上洛催促の書状を送ってきた浅野長吉に秀吉謁見の取次役を当てにしていたのだろう。 政宗は、浅野長吉に鉢形城の戦場から小田原に戻るよう働きかけながら、一方で家康を頼りにしていた。 家康の家臣内藤清成の天正日記に「六月一日、伊達殿内々にて此の方へ御越し、結城様より御頼み也。二日、伊達殿結城様御馳走、風呂炊くべしと仰出さる。四日、大殿様結城様伊達殿御一緒に殿下へ御越し也」とあり、結城様は家康の次男秀康、大殿は家康、殿下は秀吉である。天正日記では、政宗が六月一日に小田原の家康陣地に到着、馳走と風呂を貰い四日に秀吉本陣に向かったとあるが、政宗が会津黒川城の家臣に宛てた六月十四日付書状(伊達家文書五一三)に「去五日ニ小田原に着陣、同九日巳刻令出仕」とあり、小田原着陣と秀吉謁見の日が違うことから天正日記の信憑性が疑問視されている。 しかし甲府から甲州道経由で小田原まで約一〇〇キロの山越えを四日の行軍とすると、五月二八日に甲府で浅野長吉に小田原に来て欲しい旨出状した後、直ちに小田原に向け出立していれば、六月一日に家康陣地に到着、四日に秀吉陣地向けて出立、五日に秀吉陣地着、七日に詰問使に弁明、九日に秀吉謁見、日程的に問題はない。 広小路から途中で道に迷ったが、親切な高校生のスマホ検索のお蔭でようやく家康陣地跡に辿り着いた。住宅街の中だが畑も広がり、説明板に、家康は豊臣方の先鋒として三万の兵を三方に分けて箱根を越え、小田原城の東方で山王川と酒匂川の間のこの地に布陣、北条氏が降服して開城するまで一一〇日間滞留したとあった。 死を覚悟で敵陣に単身で乗り込んできた政宗にとって敵地での家康の温情と歓待は終生忘れ得ぬものだったろう。共に北条氏と反秀吉同盟を結んでいた二人は何を語り合ったことだろう。家康は既に小田原陣後の江戸転封を秀吉に言い渡されており、政宗が親秀吉派の佐竹の抑えとして後背の奥羽で健在でいることが江戸に移された家康の安泰に通じることでもあり、小田原に遅参した政宗の助命と救済に尽力を約束したにちがいない。 次の目的地は、秀吉が小田原城の南西三キロの笠懸山に築いた石垣山一夜城である。政宗は、小田原城の東側に布陣する家康の陣地からどのルートで、西側の石垣山の秀吉本陣に向かったのだろう。北回りか、南回りか。 総延長九キロの総構えの北側は、標高一〇〇米級の丘陵地帯で、その外周に布陣する蒲生氏郷・羽柴秀勝・羽柴秀次・細川忠興・宇喜多秀家は、遅参する政宗にとって音信も面識もない秀吉与党の西国武将ばかりである。 総構えの南側は、相模湾に面する狭い海岸コースだが、騎馬で一気に駆け抜けられ、北周りの半分の距離、政宗は同伴する家康主従と南回りを選択したにちがいない。私も政宗が駆けたであろう海岸沿いの国道一号線を西の早川口に向け電動自転車を走らせた。江戸口見附から小田原市中心街と小田原城を右手に二〇分程で早川口遺構に着いた。市街地に残る総構えの土塁を見学、芦ノ湖を水源とする早川を渡り右折、一夜城への山道に入った。 まもなくレンタサイクルボランティアさんお勧めの海蔵寺が見えてきた。ここに信長の小姓だった堀秀政が布陣、まもなく陣中で病没したという。一夜城の登り口であり秀吉に最も信頼されていたのだろう。ボランティアさんは、秀吉は小田原を秀政に与え江戸に転封した家康の抑えにするつもりだった、そして政宗は秀政の陣に泊めてもらったらしいとも話していたが、秀政は本能寺直前に信長に叱責解任された明智光秀に代わり家康の接待役を務めており、家康と昵懇だったからかもしれないが、政宗の着陣前に病没しており真偽の程は不明である。 石垣山一夜城への急峻な山道は、電動自転車の威力全開、右手後方に広がる小田原市街と駿河湾を望みながら二〇分、ようやく標高二五七米の石垣山山頂に着いた。案内板に、山頂に櫓の骨組みを造り白紙を張り城壁に見せかけ一夜にして城を出現させ、小田原城兵が士気を失ったとの伝承から一夜城といわれたが、実際には延べ四万人を動員して八〇日を費やした関東で最初の総石垣造りの山城だったとあった。百聞は一見に如かずである。 東斜面から二の丸・本丸・天守閣と階段状に並んだ城郭は、小田原城から幾層もの石垣城に見えたことだろう。眼下に小田原城を睥睨する満面の秀吉が浮かんでくる。 時計は十四時を回っていた。石垣山の山道を自転車で一気に駆け下り、早川口から総構えの北西部に残る小峯御鐘ノ台大堀切に向かった。小田原城三の丸外郭土塁に沿った急峻な山道を駆け上ること二〇分、かつて奥州合戦で平泉軍が頼朝軍を迎撃した阿津賀志山防塁の数倍はあろう土塁と空堀が現れた。標高一二〇米に、最大幅三〇米、深さ十五米、法面勾配六〇度、これが延長九キロとは、皇居一周五キロの倍近く、その規模に驚愕である。 落ち葉が敷き詰められた堀底を踏み締め、高い土塁を見上げながら、北条氏は秀吉の大軍相手に本当に勝算を信じていたのだろうか。過去の成功体験から籠城作戦を採ったといわれるが、上杉謙信の十万の大軍に包囲された時、北条と同盟する武田信玄が北信濃に浸入したため上杉軍が包囲を解いて帰国したのであり、今回の籠城戦も、同盟していた家康と政宗の援軍があってこそである。北条の命運のカギを握っていた政宗の心情は如何ばかりか。しばし遺構の底に佇んだ。

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