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国母・昭憲皇太后 

2019年01月13日 外部ブログ記事
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昭憲皇太后(国母)

 ☆明治天皇の皇后で、旧名・一条美子(はるこ)
 ☆病弱で実子はなく、明治天皇の側室(柳原愛子)が生んだ嘉仁親王(大正天皇)を養子とした
 ☆欧州の王侯貴族・貴婦人と対峙できるよう、日本の近代女子教育を振興した
 *社会事業の発展、国産の奨励等にも尽力
 ☆史上初めて洋装をした皇后

昭憲皇太后生涯
 ☆皇后時代
 *従一位左大臣・一条忠香の三女として誕生(生母は側室、新畑民子)
 (徳川慶喜に嫁いだ美賀子は義理の姉妹)
 *新帝明治天皇の女御に治定し、美子と改名し即日皇后に立てられた
 *天皇より3歳年長であることを忌避して出生日が変更された
 ☆皇太后時代
 *明治天皇が崩御し皇太后となられた
 *沼津御用邸で、狭心症により崩御
 *「昭憲皇太后」と追号され、明治天皇と共に明治神宮の祭神とされた
 *陵墓は京都伏見桃山東陵
昭憲皇太后業績
 ☆社会事業振興の先頭に立つ
 *現・学習院女子高等科、現・お茶の水女子大学の設立
 *日本赤十字社の発展に寄与し、東京慈恵医院、現・日本赤十字社の発展に貢献した
 ☆皇后として、欧化政策の先頭に立たなければならない立場を強く自覚していた
 *着用の衣服を寝間着を除いてすべて洋服に切り替えた
 ☆津田梅子ら女子留学生の派遣にも関わった
 ☆能楽、美術、工芸の発展にも心を配る
 ☆日清・日露戦争に際しては、出征軍人や傷病兵に下賜品を与え、慰問使を送った
 ☆短歌(作歌)、約3、6万首を作られた
 *お茶の水大学では、現在も校歌として歌い継がれている
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出典、『WIKIPEDIA』他






















昭憲皇太后(国母)
(BS−TBS『にほん歴史鑑定』番組画面より画像引用)

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