メニュー

最新の記事

一覧を見る>>

テーマ

カレンダー

月別

慶喜

「文禄・慶長の役」で、日本軍は明軍を圧倒していた 

2018年12月29日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



戦国時代3

豊臣秀吉キリスト教宣教師の追放
 ☆秀吉は当初、キリスト教の布教を認めていた
 *勢力を拡大したキリスト教徒が、神社や寺を破壊する事件が多発する
 *イエズス会が日本人を奴隷としてヨーロッパに売買した
 ☆秀吉「バテレン追放令」を発布し宣教師を国外追放とした
 *庶民の信仰までは禁じなかった
 ☆「サン=フェリペ号事件」とは、サン=フェリペ号の水先案内人が告げた内容
 *スペイン国王は、キリスト教の宣教師を世界中に派遣する
 *その土地の民をキリスト教徒にして国を裏切らせその国を武力征服する
 ☆当時のスペインやポルトガルが宣教師に先兵のような役割
 *中南米や東南アジアの国々を植民地にしてきた
 ☆日本がそういう運命を辿らなかったのは、武力を有していたから
 ☆秀吉はキリスト教に対する態度をいっそう硬化さる
 *庶民の信仰も禁止した
 ☆日本におけるキリスト教の布教の勢いは急速にしぼんでいく
秀吉の朝鮮出兵
 ☆秀吉は天下統一後、大明帝国の征服を計画した
 ☆秀吉は明の冊封国である李氏朝鮮に服属を強要し、明への道案内を要求した
 ☆拒否されたので、朝鮮を征服するために15万人を超える大軍を朝鮮半島に派遣した
 *日本にとっては「白村江の戦い」以来、約900年ぶりに行なわれた対外戦争
 *日本軍を迎え撃ったのは朝鮮軍・明軍合わせて約25万人
 *両軍合わせて四十万人を超える戦争
 ☆日本軍は、一時は朝鮮半島のほぼ全土を制圧した
 ☆明が参戦等で、戦線は膠着状態になった
 *戦いが4年に及ぶと、日本軍の中にも厭戦気分が蔓延
 *日本と明との間で講和交渉が行なわれ休戦となった
 ☆双方の講和担当者は、本国に向けて、相手が降伏したという偽りの報告をしていた
 *明は秀吉に対し、日本国王の称号と金印を授けるために使者を派遣した
 *秀吉は激怒して使者を追い返し、朝鮮への再度の出兵を決定した
 ☆秀吉は14万人を超える大軍を朝鮮半島に派遣した
 *日本軍は、数に優る明・朝鮮の連合軍を各所で打ち破った
 *そのまま攻め込んでいたら、明を窮地に追い込んだ可能性は高い
 ☆秀吉が病死
 *本国で豊臣政権を支える大名間での対立が起こり、対外戦争を続行する状況ではなくなった
 *豊臣家の五大老は秀吉の死を秘匿して日本軍に撤退を命じ、全軍が撤退した
 ☆歴史教科書には、「慶長の役」で日本軍は苦戦したと書かれていることが多いが間違い
 *日本軍が「慶長の役」で明軍を圧倒していたことは中国も認めている
 *秀吉による朝鮮出兵が開始されて明は10万の将兵を喪失し、百万の兵糧を浪費する
 *明と朝鮮に勝算はなく、ただ秀吉が死去するに至り乱禍は終息した
 ☆日本もこの戦いにおいて、少なくない損害を出す
 *豊臣政権が倒れる原因の一つとなったことはたしかである
秀吉が明を征服しようとした動機?、
 ☆秀吉の老いによる「呆け説」もあるが、計画そのものは周到に練られている
 ☆日本の歴史学者の大半は、秀吉の誇大妄想と見倣している
 ☆「文禄の役」と「慶長の役」において、日本軍は終始、明軍を圧倒していた
 *日本軍が、モンゴル軍のように捕虜とした朝鮮人を兵隊として用いる
 *明を征服することは決して不可能ではなかった
 ☆日本との戦いで疲弊した明
 *農民反乱指導者の李自成により減ぼされている
 *李自成も翌年、北方の少数民族である女真族の清に減ぼされた
 ☆元も清も少数民族でありながら、中国大陸を百年以上にわたって支配している
 ☆近年の歴史教科書では、「朝鮮侵略」と記述されていることが多い
 *他国に攻め込むことを侵略と書くなら
 *世界史におけるアレクサンドロス大王やチンギス・ハーンやナポレオンの遠征
 *すべて侵略と書かなければ辻棲が合わない
関ヶ原の戦い
 ☆秀吉の死後、五奉行と五大老が合議制で政治を運営する
 ☆五大老の筆頭徳川家康
 *多くの大名と姻戚関係による同盟を結んでさらなる勢力の拡大を図った
 ☆五奉行の一人である石田三成と対立する
 ☆三成は家康を討つために挙兵し、家康もまた挙兵した
 *三成についた西軍と家康についた東軍との決戦となった
 *戦いはわずか半日で、東軍の一方的な勝利に終わった
 ☆戦いに勝利した家康
 *三成をはじめとする西軍の大名たちを処刑
 *領地を没収して、多くの大名たちを傘下に収めた
 ☆豊臣家も大幅に領地を減らされ、65万石の一大名になった 
 ☆家康の心配は、豊臣家から恩顧を受けた大名たちが秀吉の遺児秀頼を担ぎ出すこと
 *家康は「大坂冬の陣」「大坂夏の陣」の二つの戦いで、豊臣家を完全に滅亡させた
大坂夏の陣で死んだ豊臣家の当主豊臣秀頼(不義の子?)
 ☆秀頼を産んだ茶々の母の市(信長の妹)を自害に追い込んだのは秀吉である
 *茶々にとって秀吉は両親の仇に他ならない
 ☆茶々が不義の子を産み、その子が豊臣家を継いだなら、復讐を果たしたといえなくもない
秀吉の死後、女同士の間にも熾烈な戦いがあった
 ☆ねねは豊臣家の多くの家臣から慕われ、豊臣政権において大きな政治力を持っていた
 *茶々との関係は良くなかった
 ☆豊臣恩顧の武将の多くが西軍につかなかったのは、ねねが茶々を嫌っていたから
 *ねねは豊臣家の減亡後、徳川家に厚遇された
 ☆徳川二代将軍の秀忠の正室であるお江は茶々の妹である(信長の姪)
 *お江は後に三代将軍となる家光を産む
 *これによって織田の血が徳川へと流れ込む
 *信長の血が、支配者の血脈に残る
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
出典内容の知識共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介しました
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
詳細は、出典記事・番組・画像で確認ください
出典、『日本国記』








「文禄・慶長の役」で、日本軍は明軍を圧倒していた
(ネットより画像引用)

>>元の記事・続きはこちら(外部のサイトに移動します)





この記事はナビトモではコメントを受け付けておりません

PR





掲載されている画像

    もっと見る

上部へ