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平成の虚無僧一路の日記

虚無僧と風呂 

2018年12月16日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



江戸時代、虚無僧寺のいくつかは「風呂」を沸かし、一般の人に開放していた。それで、虚無僧寺は、別名「風呂司(寺)」「風呂屋」と呼ばれていたのである。「鈴法寺」や「一月寺」が江戸に置いた番所(出張所)も、高崎の「慈上寺」、宇都宮の「松岩寺」も「風呂屋」を営んでいた。ひと昔前まで、銭湯の入り口が「寺構え」になっていたのは虚無僧寺の名残かもしれない。しかし、町の「銭湯」とは区別されていて、「銭」ではなく「薪料」として「志」を受けるのだと主張している。これはどうやら、檀家を持たない虚無僧寺の貴重な収入源だったようだ。「遊行聖人」とか呼ばれた「時衆(宗)」も、全国を周遊し、行く先々で「風呂」を沸かしている。こちらは、酒肴や歌舞音曲付きで「娯楽施設」となっていく。そこから「歌舞伎踊り」が生まれていくのである。小田原の北条幻庵も、立派な風呂屋を設け、連歌師や客人を招き、“ 接待 ”の場としている。関東や東北の虚無僧寺が「風呂」を設けていたのは、この「幻庵」の影響ではないかと、私は考えている。江戸時代の末に出版された『虚鐸伝記国字解』では、「鎌倉時代、法燈国師が 中国から4人の尺八居士を連れて帰り、由良興国寺で風呂炊きをさせた」と書かれている。「風呂谷」という地名もあったそうな。虚無僧が風呂屋を営むのは、まさに、この故事によるものとされているが、私は、江戸時代に虚無僧寺が風呂を営んでいたので、その由緒を創作したものと思っている。虚無僧が尺八を吹く姿、まさに「火吹き竹」で風呂を沸かすのに通じているではないか。ところで「風呂坊主」が「プロポーズ」のジョークに使われているとか。

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