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平成の虚無僧一路の日記

明治の遍路・虚無僧 取締り 

2018年11月17日 外部ブログ記事
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愛媛県の生涯学習センターのH.P「データベースえひめの記憶」に、
「遍路の取り締まりについて」詳細が述べられている。
発端は、明治19年(1886)5月、高知県の『土陽新聞』に「遍路拒斥すべし
乞丐(きっかい)逐攘すべし」と題する論説が載った。かなりの長文だが、
その趣旨は、
「遍路には 旅金を携へ 身成も一通り整へて來るもあるが、真に祈願の為めに
来るは少く、其の大半は 旅金も携へず 穢き身成にて 他人の家に 食を乞ふて廻り、
実態は 物乞いにすぎない。その弊害は、第一に伝染病の媒介、第二に、食に
困って、泥棒、強盗などを働く。 第三に、行き倒れになれば、その処置に
はなはだ迷惑する。
それでは、どういう対策をとればよいのか。
第一には、縣下各町村 申合せを為し、遍路乞丐に対しては
一切何物をも恵与せざることとする。又、国道、県道の通行のみを
許可し、町村内には一切立入り禁止とする。
第二には、県境付近の巡査に命じて 他県から侵入しようとする遍路
物乞いを捕えて、先の事情を告げ、説得する。
第三に、他県の警察にも申し合わせ、さらに四国内にとどまらず、
第四には、日本政府に働きかけ、法律で、遍路に限らず、食物
其他の物品を乞ふことを制止せられんことを欲する。
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さて、この論説を受けて、一ヶ月もしないうちに高知警察が動き出した。
各警察署及び交番所の巡査に命じ、乞丐の徒は 見當り次第 所轄警察署に
連れ來り、一日一銭八厘づつの食を与へ置き、五日或は土日留置き、其の
集るを待て本籍へ追ひ返すこととなった。高知警察署で 同日護送せられし
遍路は二百餘名と。
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おりしも京都・東京では、明治18年(1885)から この明治19年にかけて
虚無僧の取り締まりが行われていた。
10年余り後の明治34年の『土陽新聞』でも、「警察署に於て追ひ払ひたる
遍路乞食の数三百八十一人」と報じている。
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これに対して、抵抗を企てた人も
愛知県丹羽郡岩倉町の酒井鍬吉といふは 四国遍路となりて 合力を
乞ひながら歩き廻る中、県下長岡郡 駐在巡査の 遍路狩りの獲物となりし処、
此奴遍路の僻(くせ)に 仲々理屈をこねる奴にて、「あなたは何故に 私の旅行を
妨げますか。旅行は私の自由で 御坐ります」と云張り、後警察署に連れ来られし後も
頑として不服を唱ふる所により、種々申聞たるも 聴かず、出高の上 検事局及び
警察本部へ警官の取扱を不法なりとして訴へ出でたり。
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明治40年(1907)に遍路を行った 小林雨峯の遍路記には、
「遍路入るべからず なぞの札のありし土佐の地方を見しこともある。
遍路狩なぞの行はるゝ方面では、遍路は乞食と同様の観を以て目されたる」と
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戦後の 現行「軽犯罪法」では 「乞食は禁止」となっている。1年の懲役または
100万円の罰金。 解釈として「宗教行為を除く、物乞い」と、暗黙に理解されて
いるので、遍路や虚無僧は、取締りの対象にならない。
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明治の半ばは、みんなが貧しい時代だったから、乞食の増加と、食を施す側の
負担も大変だったからだろう。皆が豊かになった今日 ‘接待’ は ‘富める者の
感謝と徳積み’ という観念で うけいれられている。 
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ちなみに、現代のホームレスは “物乞い” をしないかぎり、軽犯罪法第一条
には当らない。ただし、公共の場所や他人の敷地で 長期間かってに 寝泊り
しているのであるから、不法占拠、不法侵入に問われる。
20歳の女の子が、行く先々でお金をもらい、無銭旅行で日本一周を企て
話題になったが、これは宗教行為ではないので、軽犯罪法に抵触する。
というわけで、虚無僧はいいなぁ。

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