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平成の虚無僧一路の日記

偈箱の明暗について 

2018年11月17日 外部ブログ記事
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虚無僧が胸に下げている箱を「偈箱」という。「偈」とは「仏の功徳、仏力を讃える語」と辞書にはある。そこに私は「明暗」と書いている。「明暗」は、京都の明暗教会の会員であることを示すものでもある。「京都、明暗寺」または「明暗教会」と書く例もある。昭和5年の谷狂竹の写真は「大本山東福寺明暗教会」となっているが、現在、明暗寺に属さない谷派の青木虚波夢氏は「不生不滅」と書いている。塾の先輩の藤由越山氏は、高橋空山派で、皇室の裏紋「五三の桐」を描いている。だが、意外なことに、江戸時代には、偈箱は存在しなかった。明治の荒木古童(竹翁)の虚無僧姿の写真でも偈箱は付けていない。どうやら「明暗」と記した偈箱は戦後のことらしい。塾の先輩藤由越山氏のブログに「柴田聖山(菊水湖風)が、映画に出演した時、初めて偈箱に“明暗”と書いたと言っていた」とあった。私の師堀井小二朗も「私が映画に出た時・・」と同じことを言っていたので、アレアレ?である。『邦楽ジャーナル』(2001/7月号)の神田可遊氏の記事「映画の中の虚無僧」にヒントがあった。昭和30年『虚無僧系図』が映画化された時、当時の明暗寺奉賛会から85人もの“虚無僧”が動員され、菊水湖風の編曲になる『虚空』が大合奏された、という。これで分かった。菊水湖風も堀井小二朗も当時は上田流に所属し、戦後の京都明暗教会の復興に尽力していて、仲が良かった。二人ともこの映画に出演協力していたのだ。「明暗」と書くことを提案したのは、どちらが先かは分からないが、二人の合同意見だったのだろう。ところが、その「市川歌右衛門主演『虚無僧系図』」のスチール写真には、偈箱が無い。堀井小二朗氏は「何も下げてないと絵にならないので、なんか無いか?」と監督から相談を受けたので『明暗』と書いた偈箱はどうですか」と提案した、と語っていた。とすると、スチール写真を撮った後、“明暗箱”ができたのだろうか。撮影年代不明だが、堀井小二朗氏の虚無僧姿の写真では、偈箱に「明暗教会」とある。その後の昭和36年、鶴田浩二主演の『鳴門秘帖』のポスターでは、はっきり「明暗」と書かれた偈箱が写っている。ここまで書いて、「“明暗”と記す偈箱は昭和30年代以降」と結論付けようとしたが、待てよ『邦楽ジャーナル』(2004/9月号)の神田可遊氏の記事に、「昭和25年封切りの嵐寛寿郎主演『虚無僧屋敷』」でも、昭和36年の鶴田浩二と全く同じ「明暗」と記した偈箱を下げているではないか。先例は、堀井、菊水両氏が提案する以前、5年前にあったのである。

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