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黒船来航 明治維新 大東亜共栄圏(2) 

2018年10月23日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



黒船来航前のアジアの状況

イエズス会からアヘン戦争まで眠っていた清国
 ☆東アジア世界とヨーロッパ文明の出会いは、ポルトガル船とイエズス会の宣教師によるもの
 ☆江戸幕府はキリシタンに恐れをなしてポルトガル船の来航を禁止した
 *オランダを仲介とする貿易のみを残して鎖国した
 ☆中国では、イエズス会の宣教師が、孔子への崇拝や先祖の祭祀まで認め布教する
 *ローマ教会は、イエズス会の布教方法を否定した
 *中国康熙帝は、怒ってイエズス会以外の宣教師の入国や伝道を禁上した
 ☆日本も中国も、西洋で起きていることに関心を持たずに天下泰平を楽しんでいた
18世紀の終わりごろから情勢が変化する
 ☆日本の場合は、ロシア人の出現
 *田沼意次は鋭い感覚で反応し、蝦夷地の開発へ動き出した
 *松平定信は、蝦夷地を住みやすい土地にすれば、ロシアに狙われるだけだと退けた
 ☆清国は康熙帝の時代
 *ロシアとネルチンスク条約を結び、スタノボイ山脈を国境にして南下させなかった
 ☆ロシアは、その後ポーランドを併合したり、トルコから領土をかすめ取ったりと忙しい
 ☆極東への関心は薄れる、又ロシアはナポレオンに侵攻される
中国には、インドで地歩を固めていたイギリスが接近
 ☆中国側は、イギリスの使節も朝貢関係にある使節として扱った
 ☆イギリスは、中国から茶、絹織物などを輸入したが、輸出できる物がなかった
 *中国には大量の銀が流れ込み、イギリスは悲鳴を上げた
 *イギリスが思いついたのが、インドのアヘンを中国に売ろうということ
 *中国では、アヘン吸引の習慣は瞬く間に広まり、銀が流出超過になった
 ☆中国では、アヘンを禁止を決め、林則徐が広州に行ってアヘンの没収した
イギリスは、中国への武力行使に踏み切る
 ☆中国は、南京条約で賠償金支払い、香港の割譲、最恵国条項等を受け入れさせられた
 ☆中国では、銀が流出し中国の経済が崩壊、半植民地化のきっかけになった
 ☆中国では、戦争で負けて夷狭に恩恵を与えること、珍しいことではないので意外に平静
 ☆日本人のほうが、シヨツクを受け、危機感を正しく募らせた
幕府が日本のプロイセンになる可能性はなかったのか?
 ☆アヘン戦争のころ、江戸幕府では水野忠邦が老中で、状況の厳しさを正しく捉えていた
 *鎖国を強化するだけでは問題が解決しない
 *抜本的に中央集権体制を構築しなければならない
 *薩摩や長州がいずれ幕府を脅かすだろうなどと正確な分析をしていた
 ☆江戸藩としては、幕府がプロイセンのような強国になる必要があった
 *江戸と大坂周辺は幕府領にしたいところでしたが、上手くいかず
 *幕府は川越・庄内・長岡の三角トレードを命じたが上手くいかず
 *幕府は「上知令」を出したが上手くいかず
 ☆結果として、江戸幕府が日本のプロイセンにはなれなかった
江戸幕府終わりのころの経済政策
 ☆経済の実態をまるで理解せず、すべて綱紀粛正や贅沢の禁止で乗り切れると考えた
 *奢修取り締まり、江戸が衰退し商人が離散しても差し支えない
 *純朴の風潮が確立すれば2〜3年で経済はよくなると極論を吐く
 ☆水野忠邦は都市生活の華美を徹底的に嫌う
 *芝居、娯楽絵本、色町などにも厳しい制限を設けた
 *物価が高いのは株仲間のためだとして解散を命じる
 *「人返しの法」で江戸に出てきている農民を農村に追い返して農業生産を上げようとした
 ☆西南雄藩などでは特産品を専売制にして、重商主義的に経済の拡大を実現
 *江戸幕府と、西南雄藩と経済的に大きな差が出た
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
出典内容の知識共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介しました
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
詳細は、出典記事・番組・画像で確認ください
出典、『日本国家の正史』






黒船来航前のアジアの状況(ネットより画像引用)

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