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平成の虚無僧一路の日記

吉川英治『宮本武蔵』に「虚無僧」が 

2018年10月21日 外部ブログ記事
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吉川英治『宮本武蔵』の「火の巻」にも「虚無僧」が登場します。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・当然人は住んでいないものとばかり思っていた家の奥に、風で燃え出した炉ろの火がぱっと赤く見え、しばらくすると尺八の音がそこから聞えだした。ちょうどよいねぐらとここに一夜を明かしている虚無僧らしい。独り尺八を吹いているのだ。それはまた他人に聞かそうためでもなく、自ら誇って陶酔している音でもない。秋の夜の孤寂の遣瀬なさを、無我と三昧に過ごしているだけのことなのだ。一曲終ると、虚無僧は、ここは野中の一軒家と、安心しきっているらしく独り言に――「四十不惑というが、おれは四十を七つも越えてから あんな失策をやって、禄を離れ家名をつぶし、あまつさえ独りの子まで他国へ流浪させてしまった。慚愧にたえない。死んだ妻にも生きている子にも会わせる顔がない。このおれなどの例を見ると、四十不惑などというのは聖人のことで、凡夫の四十代ほど危ないものはない。油断のならない山坂だ。まして女に関しては・・・。二十代三十代なら取り返せるが、四十代の失敗は二度と芽を出すことがむずかしい」浪人の垢じみた着物を着て、その胸に、普化禅師の末弟という証ばかりに黒い袈裟をつけているに過ぎないのである。敷いている一枚の筵は、常に巻いて手に持って歩く彼の唯一の衾であり雨露の家だった。「やめよう、また愚痴が出て来おった。……おお月が出たな、野へ出て、思うさま流して来ようか。そうだ、愚痴と煩悩を野へ捨てて来よう」尺八を持って、彼は外へ出て行った。

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