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様々な宗教を受け入れる神道(3) 

2018年10月13日 外部ブログ記事
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神道の懐の深さ

 ☆「本地垂述説」の神は、仏の力をかりて人を救うとの考え
 *神が大きな力をもつ仏なら、神に祈れば神が仏が願いを叶えてくれると人々は考えた
 ☆江戸時代に、仏教勢力が後退し、明治政府は神仏分離を行なった
 ☆現在でも、神仏習合の影響で「神に頼むだけで願いが叶えられる」発想は広く残っている
 ☆本来の神道は他力本願のものでなく、人びとに人間らしい生き方をすすめるものであった

道教的信仰の広まりと神道
 ☆老荘思想から発展した道教
 *神道は、儒教のほかに道教からも多くのものを学んだ
 *道教信仰は、中国では民間に広まり、やがて宮廷の習俗に入りこんでいった
 ☆神道と道教の共通点
 *道教は、不老長寿を求めることを中心とする現世利益的な性格をもつ
 *この点は、人びとが健康にすごすことを重んじる神道に通じるものである
 *道教廟では、芝居が演じられており、神社で神楽を鑑賞するあり方と共通する
 *神道でも道教でも昔の偉い人物を神としてあがめる等
仏教伝来での神道への影響
 ☆日本人は仏をどう見たか
 *渡来系豪族と親しかった蘇我氏は仏教受容に賛成した
 *古くから大和朝廷の祭祀の重要を受け持ってきた物部氏は仏教に反発した
 *日本人は、仏を日本に数多くいる神と同列のものとみていた
 *釈迦、弥勒などの仏を神に近いものとして扱う発想は、後世まで受け継がれた
 ☆物部氏の滅亡と神道の変化
 *朝廷の手で大がかりな仏教興隆策がとられた
 *当時の人びとの大部分は、仏に現世利益をもとめた
 ☆神道の外形が仏教にならって整えられた
 *寺院をまねて神社がつくられ、仏像、仏画をまねた神像や神の肖像画がつくられた
 *仏事にならった神事の整備もすすみ、読経をまね祝詞が読み上げるかたちに変わった
仏教と神道の交流
 ☆豪族たちは氏寺に求めたもの
 *人びとは、神に願うことができなかった私的な望みの実現を仏に祈った  
 *豪族は、自家の氏神と氏寺をまつる方式への転換がなされた
 *氏神は、 一つの豪族と豪族の支配下の民衆との両者を守るもの
 *氏寺は、一家族の個々の祖先を供養する場と考えられた
 ☆盆と彼岸は神道の祭りだった
 *日本の神道では、正月と七月に祖先の霊をまつる行事が行なわれていた
 *収穫を終えてた時期に、農耕神となった祖霊に感謝するものであった
 *正月には米の収穫のお礼を、七月には裏作としてつくった麦などのお礼を述べた
 *七月の行事は、仏教の孟蘭盆と結びつき、収穫感謝の部分を失い祖先供養の行事となった
 *神道での御霊祭り(昼夜同じ長さ)のちの春秋のお彼岸となった
他力本願の発想を招いた神仏習合
 ☆密教僧が説いた「本地垂述説」
 *日本に仏教が伝来し、神道が仏教や儒教の知識を取り入れながら一定の形式に纏められた
 *当時の貴族は、密教僧に、雨乞い・政敵の排除等を祈らせていた
 *密教寺院は、繁栄し密教の学僧から神道に対する考えが定められた
 (仏は幾度も生まれ変わって人びとを助けるもの)
 (日本の神は、仏の生まれ変わった姿の一つである)
 *この考えを「本地垂述説」神仏同体説(神は、仏の力をかりて人を救う)
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
出典内容の知識共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介しました
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
詳細は、出典記事・番組・画像で確認ください
出典、『神道』




神道の懐の深さ(『神道』記事より画像引用)

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