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シニアの放課後

十牛訓ー21 <9−返本還源>A/5 

2018年09月17日 ナビトモブログ記事
テーマ:中村天風<十牛訓>

 武蔵がニコッと笑って
 <私は もともとが師匠から剣術を教わったものでござりません。山の中で手ごろの木の枝を切って それを幾十本となく縄で上からつるしておきまして この小枝を下から手あたり次第になぐりつけますと はね返ってまいります。それをあたら二間合いを極めましたのが私の兵法にござります。
 したがって 人と試合をいたしますとき 命の取り合いをするとか 試合をするとかという考え方で太刀打ちはいたしません。ただ つるした木の枝から自分が逃れる間合いをはかって それに当たらないようにする。それと同じ気持を 人を相手にしたときにするだけで ただ 木よりも人の方が相手にしやすうござります>
 <それは どういうわけか>
 <木の方は恐れを感じません 木それ自身は。恐れは私のみが感じるのであります。けど 人間同士の時はむこうがこっちを恐れます。恐れるために こっちからいくたちを向こうは逃げます。枝からつるした木は逃げません。それだけに 枝からつるした木には 勝負で時どき私 負けまして ぶたれますが 人間にはぶたれたことがござりませんから 負けたことがござりません>と言ったというんだ。
 この話を聞いた時 <ははあ これだこれだ これだよ。心身統一の本当の奥の秘訣もここにある>と思ったねえ わかった?
 もういっぺん言おうか。修養の中途においては 執着 煩悶 病難 運命難を人にありえぬもの あっちゃいけないもの あらしめべからざるものとして 否定するための方便として積極心を養わせている。しかし 本当に心が積極的になったら 消極的なものはないんだ。心が絶対的なんだから。絶対的になったら 絶対になっちまうと 今の武蔵と同じように 命の取り合いをしてる瀬戸際でも 命の取り合いをしてる気持じゃないもん。木につるした枝をポンポン ポンポン打ってるときよりも気安い。
 あの刀というものは―刀ばかりじゃないが 体にさわらないと切れない。不思議なものです。どんな名刀でも 吹毛の剣といって 女の髪の毛一筋を刃のうえにのっけて フッと吹くと スッと切れるぐらい切れ味の鋭い刀でも さわらないと切れない。
 それと同じように すべての人生の出来事も 自分の心にさわらせなかったら心は切れない。絶対的というのは エイッエイッと押し返す刀じゃないんだよ。
 積極に二色あった。<よっしゃあ 恬淡明朗 溌剌颯爽>―それが最初の積極。そいつがもうすっかり自分のものになっちまうと何にもいらないんだ。向こうからサーッときても ヒョイと当たらないもん。
 剣道の極意に <ついてくる刃は受けな。流すべし。たたら踏みたらば けさで斬るべし>というのがある。パーッと突いてきたやつを受けたら 受け身ということで体の調子がくずれる。受けないで流しちまえばいい。人生の出来事は何でも 突いてくる刀と同じように <受けな 流すべし>で 相手にしないこと。そうすると 向こうの方で自分でつまずいてよろけちまうだけなんだ。
 そうなると さっき言った牛も臭みもかすも何にもありゃしないよ。味噌も 味噌くさきは味噌にあらず。悟りのできた様相をしてる人は本当の悟りができていないわけなんだ。

〜続く〜



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