メニュー

最新の記事

一覧を見る>>

テーマ

カレンダー

月別

シニアの放課後

十牛訓ー20 <9−返本還源>@/5 

2018年09月14日 ナビトモブログ記事
テーマ:中村天風<十牛訓>

はい 第九図 <返本還源>。
 梅の花が咲いて ふくいくとして

   染めいだす人はなけれど春来れば 柳は緑 花は紅
   染めねども山は緑になりにけり おのがいろいろ花もなきなり

 これは自然現象の表現の詩なんだけど 何をいったい暗示してるかというと 修養しつくして 本然に返ること。これは難しいことだけどね。悟って悟って悟りつくして もとの本然の世界に返ったんだ。本然の世界とは 何の塵も汚れもない 清浄無垢の姿が本来の世界だよ。何にもないんです。
 これは心身統一法でいうと 霊性世界の生活が完全にできてる人のことを言う。霊性世界の生活とは何だということは きのう聞いたばかりね。これが人間そのものの本当の生き方なんです。
 禅のほうでは これをこういう言葉で言ってる。<悟了同未悟>―悟って終わってしまえば 悟らない時と同じだと。悟らない前も柳は緑 花は紅。悟りつくしてもやっぱり花は紅 柳は緑。
 惟信禅師画こういうことを言ってる。修行のできないときに山を見ると 山は山 花は花 水は水だ。けれど 修行が功徳を積んで 悟りの境に入ると 山も山に見えず 水も水に見えなくなるぞ。さらに悟りつくしていくと 何と清祥無垢の心をもってして見ても やっぱり山は山だった 水は水だったと。
 これは難しんだよ。心身統一法のほうで言うとやさしいけれども。統一法でいうとね 修養の中途においての方便として 執着 煩悶 あるいは病難とか運命難を人にありえぬもの あらしめべからざるものと否定しますね。いや 否定するべく積極性を養成させてる。そうだろう。
 しかし さらに本当に心が積極的になっちまうと もうそれを否定する必要はないんだよ。否定するもしないもないんです。心が絶対になっちゃってる。そうだろう。

 その当時 日本64余州 剣をとって敵が一人もいなかったという新免二刀流宮本武蔵。有名な巌流島の試合を終わってののち 因縁あって肥後の細川家の客分になって ある日 細川公の前に呼ばれて話をしてるときに 細川公が
 <武蔵殿は 聞くところによると 百回以上も命の取り合い 真剣の勝負をされたそうじゃが その百回の中で こりゃ強そうなやつだと思った相手がござったかな>
 そうしたら ニッコリ笑った武蔵が
 <これ異なことをお尋ね 百回が百回 みなすぐれた武芸者のみでござりました>
 そうしたら 細川公が
 <それはそうでござろう。お身ほどの者と太刀打ちしようとするには よほどの手だれ者でなければできないはず。しかし その武芸者と勝負の最中 今度は勝てるかな ひょいと負けやしないかなと思ったことはござろうか>
 <あ そのお尋ねでござるか。さよう ござりませんな>
 <こりゃまた不思議なこと。人間 命の惜しくない者はない。まして剣に志す者 この人間の太刀筋 自分より上手かなと思ったら 必ずやそこに命ということを考えそうなものだが 相手が強い者ばかりといわれた言葉とは裏腹の答え どういうものでござろう>と言ったら

〜続く〜



拍手する


コメントをするにはログインが必要です

PR







上部へ