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幕府・元寇・禅宗文化(3) 

2018年09月10日 外部ブログ記事
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幕府・元寇・禅宗文化(3)

元寇でなく高麗寇呼ぶべき
 ☆モンゴル軍がロシアを征服してキプチャク汗国を建てた
 ☆西ヨーロッパでは、フランスに中世で最高の名君ルイ9世が君臨
 ☆1300年前後は、世界的にモンゴル旋風の後遺症で衰退の時代
 *チンギス・ハンは、モンゴル諸部族を屈服し大モンゴル帝国を建国(高麗はモンゴルに降伏)
 *東アジアでは、元も鎌倉幕府も高麗も衰退期
 *小アジアではオスマン帝国の萌芽が見られる
 *元寇は、後宇多天皇、亀山上皇の時期
 ☆高麗王は元寇に関し、戦費の負担を嫌いモンゴルの使節に渡海をあきらめるよう説明した
 *フビライは、高麗の説明に納得せず
 *日本の朝廷は「蒙古国を知らない」武力をもつて臣従を追るのは無礼であると高麗使節団に回答
 *高麗王世太子、忠烈王が自分の立場を強めるため派兵を進言して文永の役が始まった
 *日本の武士たちは、集団で襲いかかる敵兵に簡単に討ち取られた
 *フビライは、日本に再び使節を送るが、鎌倉ではこれを斬る
 *フビライは日本再征を計画し、高麗もそれを支持した
倭寇の海に南蛮船がやってきた
 ☆元寇にもかかわらず、日元貿易はあまり規制されず盛んでした
 ☆元が減んで明が建国され、対馬宗氏を仲介にしたユニークな交易関係が樹立された
 ☆中国明の洪武帝は、周辺諸国に上朝の交替を告げ朝貢を促した
 *朝貢してくれば献上品の数倍以上の下賜品を与えると
 *朝鮮は喜んで受け入れ、沖縄でも中山・北山・南山の三上国がこの話に乗る
 *足利義満は、朝貢・交流を拒否した
 ☆足利義満が、日本国王と認められ、遣明船による勘合貿易が始まりました。
 *遣明船が日本の経済と文化の発展になした最大限貢献した
 *義満は、明の使節が日本に来たときも最大限の歓待した
 ☆後期倭寇の活動が激しくなり、密貿易が盛んになった
 ☆ポルトガルが、倭寇と組んで東シナ海貿易に参入した
 *種子島に鉄砲を伝えたのも、中国人倭寇の船に乗ったポルトガル人
 ☆明による貿易打ち切りは、倭寇と豊臣秀吉による大陸侵攻の原因になる
 *明は滅び、日本は対外進出に懲りて鎖国などした
 *中国を攻め取った満州族とイギリスが漁夫の利を得た
戦国時代浄土真宗と日蓮宗が大発展
 ☆奈良仏教や天台宗、真言宗の寺は檀家が少なかった
 *天台宗や真言宗は、朝廷の宗教で、檀家は朝廷と上級武士
 ☆浄土信仰は、比叡山の円仁が天台宗の一部としてもたらす(源信が発展させた)
 *末法の時代に入るとさらに信奉者が増えた
 *法然は、念仏さえ唱えれば誰でも極楽へ行けると唱えた
 *密通事件で、後鳥羽院が激怒して法然は四国に流され、親鸞も越後に流された
 *本願寺が、発展するのは戦国時代の蓮如が大衆動員に成功してから
 ☆日蓮は、他宗を厳しく批判し難がやつてくると預言したら元寇がやってきた
 *商工業者には、現世での救済をめざすほうが受けが良く、日蓮宗は受け入れられた
 *現代でも、創価学会など仏教系新興宗教のほとんどが日蓮宗系
 ☆徳川家は、浄土宗で増上寺を菩提寺(天台宗の上野寛永寺も菩提寺)
宋代以後中国文化を運んできた禅宗
 ☆栄西は、宋から本格的な禅を伝えて、北条政子らの支援を得て建仁寺を創立
 (独自の宗派Lしくなったのは、中国人僧の来日が多くなってから)
 ☆南宋に真似、足利義満が南禅寺を「五山の上」とし、京都五山と鎌倉五山を指定した
 ☆室町時代に、宋・元・明の文化を、禅を通じてまとめて受け入れようとした
 (五山や全国各地に創建された新しい国分寺)
 ☆曹洞宗の開祖道元は、祈祷や祭礼等に否定的
 *出家者重視で一般への布教には熱心でなかった
 *孫弟子が、他宗以上に祈祷や祭礼を積極的に採り入れた
 *知的な学習はあまり問わないのは、地方の武士にぴったり
 *現在の仏式の葬式の形は曹洞宗が編み出したもの
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出典、『最強の日本史』

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