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1944年、父は第一航空軍司令部副官の叔父に挨拶 

2018年09月03日 外部ブログ記事
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幼少期の記憶は断片的である。
何故にそんな事を記憶しているのだろうと思うときがある。
そんな記憶のひとつが、父が管理人を連れて三宅坂にいた叔父に会いに行ったことである。

父は明治39年(1906)生れ、叔父は明治31年(1898)生まれである。
加賀藩家老本多家の小将(小姓)金沢市本多町三宅家に生まれ、金沢市高尾町の足軽長谷川家に嫁いだ祖母は、長男を軍人にしたかったので陸軍士官学校に入学させた。
叔父は、陸軍大佐としてフィッリピンで敗戦を迎えたと聞いていた。

父は、昭和12年(1937)9月に第九師団第九輜重連隊に召集(第二次上海事変)、昭和14年(1939)7月召集解除。昭和16年7月関東軍工兵第52連隊に臨時召集(いわゆる関特演・関東軍特種演習)、昭和18年2月召集解除という軍歴である。

亡父は、二度目の兵役を終わったので6歳になった長男を連れ、兄に挨拶するために三宅坂に行ったのであろう。
羊羹やチョコレートをお土産にもらったことだけは鮮明に覚えている。
三宅坂にいた叔父はどんな階級・所属だったか自分史として知りたくなった。

「軍歴照会」は三親等まで出来るので「請求者の住民票」、「父の本籍」、「長谷川七太郎の本籍」を石川県厚生政策課管理・援護グループに送付した。
この程、叔父長谷川政男の「軍歴についての(回答)」が到達した。

昭和17年(1942)3月から昭和19年(1944)1月に陸軍航空本部比島マニラ航空廠総務部長に赴任するまでは、第一航空軍司令部副官であった。
ウイキで見ると、第一航空軍司令部は三宅坂(現・千代田区隼町)にあり、安田武雄中将、寺本熊市中将、李王垠中将の副官であったのであろう。

関東軍の将兵の多くは南方戦線部隊に送られたが、二年間の兵役で東京に戻れたのは、陸軍高級官僚である叔父の働きがあったので挨拶に行ったのだろうと推測している。
「追想 金澤輜重連隊」より


旧満州延吉屯営から送られてきた写真(当時34歳)

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