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数年ぶりの薬王寺町八棟神輿が渡御 

2018年08月01日 外部ブログ記事
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外苑東通り(都道環状3号線)の拡幅工事のために中断していた新宿区市谷薬王寺町会と市谷柳町会の祭礼が3日〜5日まで催される。
薬王寺町の大御輿は都内で有数の総欅白木彫八棟御輿であるが、5日午後2時から渡御する。



市ヶ谷郷は、東は市ヶ谷船河原町から西は市ヶ谷三軒屋敷・市ヶ谷鍋釣町・市ヶ谷谷町・市ヶ谷富久町まであった。氏神は市谷亀岡八幡宮である。例大祭は毎年8月15日なのだが、住吉町会、住吉共栄会、市谷河田町会、東富久町会、市谷台町会、市谷柳町会、市谷薬王寺町会の祭礼は毎年8月の第一金曜日を祭礼の宵宮としている。

薬王寺町八棟神輿についての沿革を「市谷薬王寺町誌」から抜粋したい。
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 大正九年ごろ、若衆たちから御輿を作るよう要望が出た。役員たちによって決定、早速深川八幡の御輿を見学した。倉庫にあった三十八御輿のうち、総ケヤキ白木彫り八棟御輿で最も大きい深川蛤町の御輿の形式にすることで役員の意見が一致して注文された。
 そして、十一年八月に待望の御輿(八棟御輿で重さで三〇〇キロ若者六十人でかつぐ)ができた。それで、現在のイヌイストアーの所で引取り式を盛大に行った。御輿を飾り、手品・落語・歌謡などを出し物にし、夜店は夜中一時ごろまで開いて賑った。御輿は中内氏が土地十坪を町会に寄付されたのでそこに倉庫を造って収納された。
 十二年九月一日の関東大震災であh、町内は何の被害もなかったので、それは神輿の加護があったからと、町民一同から尊崇されたものである。震災時にほ、町会二派 とも活躍し、玄米三俵を金子米店前で炊出し、各戸にむすびをつくって配給した。また、各方面からの見舞品は、町会を通じて配給をした。
(中略)
 薬王寺町の神輿は、前にも述べたが大正十年八月、町の総意で造られたもので、都内には類を見ない立派なものである。ところが、市谷八幡の宮神輿ほ二十年五月二十五日の大空襲で焼失したので、町会は四十七年七月に町の神輿を宮神輿として献納した。
 その後、市谷八幡では茶の木稲荷の復興新築以来、財政的な不祥事が起き、町で献納した貴重な財産である神輿もその渦中に巻き込まれる心配が起きて来た。
 町の多くの有志者はそれを憂慮し、早急に町内の手で護持するのが最善の策と考えられ、神社及び氏子総代とも相談の結果、町への返還が円満に了解された。
 しかし、それを引き取り保管するのほ、町会という組織よりも、有志者達で「薬王寺町神輿保存会」を設立して当たるのが最良の方法ということになり、昭和五十一年十月五日、町内有志十四人が相集って規約をつくり、保存会が設立され、会長に中島象一郎が選出された。
 神輿受け入れの組織ができても、その保存庫建設地の目途が立たず苦慮し、一時町内在住者の工場倉庫に引き取り保管することになった。これを聞いた連秀寺住職田辺寿昭は、檀家総代と相計り、境内の一隅約六坪の土地を無償で貸与下さることになった。
 さらにまた、町内在住の鈴木聡男を始め建設業者である谷正太郎・畠山幸之助・羽太隆吉、尾崎勇、以上の方々の献身的な奉仕と、町会員各位の御理解と多額の浄財の御寄付によって、五十二年八月に神輿庫が完成し、保存されることになった。

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御仮屋に飾られた「招き」上段右側二番目は管理人


前列右から鹿島正之町会長、管理人、与謝野馨衆議院議員(故人)、前列左端は与謝野秘書吉住健一氏(都議会議員から現在は新宿区長)
2008年8月3日撮影

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