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平成の虚無僧一路の日記

桶狭間の真相 

2011年05月21日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



「桶狭間の合戦」は、「信長が 激しい雷雨の中、迂回して、
太子が根の山頂から、窪地で休息していた義元を襲った」
というのが定説だったが、最近、この「奇襲説」は否定
されている。

「桶狭間の真相(真実)」で検索すると、実に様々な説が
浮上してきている。

今川義元が、「上洛を目指して西侵してきた」という
根拠無いそうだ。尾張への略奪目的。

今川義元の領国は、駿河(15万石)、遠江(25万石)
それに 松平の三河(30万石)を合わせて70万石。
一方の、織田信長の尾張は一国で57万石もあった。
義元は、全兵力を率いてきたわけではないから、兵力の
差はそれほど無かったとも。

今川方は、松平元康のように、国人(在地豪族)の集合隊
であり、その配下は半農半兵の烏合の集。それに対して、
信長は、馬廻衆 500騎という専従の騎馬隊を養成していた。
つまり兵力的には、信長の方が優勢だったそうな。

「桶狭間の戦いの最大の功労者は、義元の居場所を報告
した簗田正綱だった」という説は、「情報の大切さ」を
説く ビジネス書だけの世界に終わったようだ。
簗田正綱に豊明が与えられたのは、桶狭間の合戦から
2年後のことなので、論功行賞には当たらないとの
反論が出されている。

最近、「今川義元は 大高の城に入っていた」という
説まで飛び出している。

「歴史的事実とは、過去には無く、その人その人の
頭の中にあるのだ」と、歴史哲学で習った。興味の無い人、
無関心の人の頭の中には、桶狭間は存在しないのだから。

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