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<心に成功の炎を>92 

2018年07月23日 ナビトモブログ記事
テーマ:中村天風<心に成功の炎を>

 <訓言十五> 自分で自分の正邪を いいとか悪いとかを 正しく裁判することのできない人ぐらい およそ下等なものはいない。

 よく考えてごらん。あなた方は<ああ 私が悪かったんだ>と思うことはたいていの場合なくて たいてい何かそういうことができあがると<あいつが悪いんだ あの人が悪いんだ>と思うね。
 いつかある人が私に聞いたことがある。
 <先生のところには どんなことがあっても 機嫌の悪い人というのを見たことがないが だれも どんなことがあっても お怒りにならんのはどういうわけですか?>というから
 <それはね おれのところはみんなね 悪人ばかりが多いからだよ>とこういったら その人が目を丸くして
 <先生のところは悪人だらけですか>
 <そうなんだよ>
 まだ意味がわからないもんだから
 <どういうわけですか?>と聞くから
 <私のところじゃ 何か起こるだろう。そうすると 『あ 私が悪かった』とこういう。だれでもいいから 私が悪かったってことを言って罪を背負っちまうと けんかにならない。人が一言でも 『あ 私が悪かった そこにそれを置いといたもんだから 壊れたのね』というふうに言っちまうと これ けんかにならないよ。
 ところが あなた方の家庭だと 善人ばかりだからいけねえ。何か事があると『私はいいんだ 私は何も悪いことはしてないんだ あの人が悪いんだ』 とこうなるから そりゃ好きに喧嘩をやりだすもんね>
 つまり 自分で自分をよいか悪いかを正しく裁判することのできない人ぐらい およそ下等なものはないと 私は私自身を戒めているわけであります。
 あなた方のほうじゃ 自分が自分自身を裁判することのできない人を 非常に上品な人だと思ったら 上品な人だと思ってもいい。私はこのくらい下等なことはないと思う。どこまでも自分がいいとばかり思って 少しも自分の欠点を自分で感じない人は 私は人間として一番下等なものじゃなかろうかと思うが まあそりゃ ご参考になれば結構であります。

 <訓言十六> 自分が自分を弁護して正しく自分を判断しないと 反対に運命のほうから人生によくない判決と宣告とを与えられる。
 
 これはきっとそうですよ。いくら自分で 私はいいんだ 私はいいんだと 自分をひいきしても それが真理にそむいていれば 運命のほうから 黙っていても グウッとその間に 貴様の考え方は間違ってるぞという 好もしくない判決や宣告を与えられますから それを考えなきゃいけない。

ー続くー



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