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平成の虚無僧一路の日記

草薙の剣とは?驚きの真実 

2018年07月15日 外部ブログ記事
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熱田神宮奉賛会のひとつとして「(一般法人)日の丸の会」を設立するにあたって
その発会式に「熱田神宮と日の丸」についての講演を頼まれました。それで
以前から気になっている「草薙の剣(くさなぎのつるぎ)」について調べてみました。
三種の神器の一つ「草薙の剣」が、尾張の地方豪族にすぎない尾張氏の氏神にすぎない
熱田神宮(以前は「熱田社」)にあるのか。(尾張の一宮は一宮のますみだ神社、
二宮は犬山の大懸(おおあがた)神社、熱田社は尾張三の宮でした)
三種の神器のひとつ「草薙の剣」は、本当に熱田神宮にあるのでしょうか。
なぜか熱田神宮では、「草薙の剣」については、堂々と公にすることを憚って
いるようです。ですから、一般には 漠然としか知られていません。
Wikipedia などでは、だいたい次のように書かれています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
素盞嗚尊(すさのおのみこと)は、出雲で八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治した際、
尾の中から天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)を発見し、天照大神に献上した。
天照大神は、迩迩芸命(ににぎのみこと)を地上に遣わす際に天叢雲剣を授けた。(天孫降臨)
10代崇神天皇(BC97)の時 天叢雲剣の形代(かたしろ)が造られ、形代は宮中
(天皇の側)に、天叢雲剣は伊勢神宮に祀られた。
12代景行天皇(AC71)の時代、伊勢の斎宮「倭姫命(ヤマトヒメノミコト)」は、
東征に向かう甥の日本武尊(ヤマトタケル)に天叢雲剣を託した。ヤマトタケルは
相模国で野火の難にあったとき、この剣で草を薙(な)ぎ、向かい火をつけて難を逃れたという。
それでこの剣の名を「草薙剣(くさなぎのつるぎ)とも呼ぶようになった。
その後、日本武尊は尾張の美夜受比売(ミヤズヒメ)を妻とし、この剣を妻に授けて出征し、
伊吹(いぶき)山で落命した。
草薙剣は伊勢神宮に戻ることなく、日本武尊の妻ミヤズヒメの出自尾張国で
祀られることとなった。これが熱田神宮の起源である。
と。では『日本書記』の原文の訳を見ると、
そのとき、スサノオは腰に挿している十拳釼(トツカノツルギ)を抜いて、
八本の尾をズタズタに斬り裂きました。 尾を切っていると剣の歯が少し欠けて
しまいました。それでその尾を割って裂いてみると、中に一本の剣がありました。 これが草薙剣(クサナギノツルギ)です。
草薙剣…これを倶娑那伎能都留伎(クサナギノツルギ)といます。 ある書によると、本当の名前は天叢雲劒(アメノムラクモノツルギ)といいます。 思うに、大蛇の居るところの上には常に雲があります。そのために名付けられたのではないでしょうか。 日本武皇子の時代に名前を草薙剣と呼ばれるようになりました。
と。また『古事記』には
怪しいと思い、剣の先で尾を刺し裂いて見ると、都牟刈の大刀
(ツムカリノタチ)がありました。 それでこの太刀を取り、不思議なものと思い、
天照大御神(アマテラスオオミカミ)に報告して奉りました。
これが草那芸の大刀(クサナギノタチ=草薙剣)です。
?・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
いずれも「草薙の剣」と「天叢雲剣」の二つの名前が書かれています。
そして「古事記」には「つむがりの太刀」とありますので、現在
一般に考えられている「両刃の銅鉾」ではなく、現在の日本刀のように
カーブした太刀ということになります。
?
さて、古事記、日本書記は奈良時代になって編纂されたものです。
日本武尊(ヤマトタケルのミコト)はそれより数百年も前の神話です。
ということは作り話です。では、誰がいつ何の目的で「草薙の剣」の伝説を
作ったのかが、私の関心事です。
そこでわかったのが、熱田の神(=草薙剣)を奉じる尾張氏が創作したものである
ということです。
尾張氏を調べると、その祖先は大陸から渡って来た海洋民族「海部・海人、海女(あま)氏」
でした。まずは九州に上陸し、日本海沿いに出雲に移ります。出雲は銅剣が多数出土しており
またタタラが出、鉄剣の産地でもありました。ヤマタのオロチ退治は、尾張氏が出雲の
先住民を服従させ、銅剣をせしめた時の遠い記憶でしょう。
そして尾張氏は丹後から能登にまで勢力を伸ばします。日本海沿いに海上交易を握っていました。
天皇の皇統は萬世一系ではなく、第26代継体天皇で皇統が変わったとされています。
継体天皇は、皇室の血は継いでいますが、能登に移り住み、広大な勢力を持っていました。
その妃がなんと尾張連(むらじ)の娘、目子姫(めのこひめ)でした。尾張氏は
継体天皇に着いて南へ移住。伊吹山位東(岐阜、愛知)に勢力を伸ばします。
熱田神宮も当時は海の中に浮かぶ島でした。熱田から伊勢、河内までの海上ルートを
支配していたのでしょう。
三種の神器の記述は、「神武天皇以来代々の天皇に」ではなく、日本書記での扱いは
わずかです。
この継体天皇とその子(母は尾張氏)28代宣化天皇の即位の時に、三種の神器として
剣が奉じられたことが日本書記に記載されています。尾張氏が差し出した剣でしょう。
「尾張(おわり)」とは大和朝廷の勢力範囲の終焉部、まさに「終わり」を支配するの
意ではなかったか。また「ヤマタのオロチの尾の張った所を切ったら剣が出てきた」にも
通じのかも。
さて、その後も大化の改新やらなにやらで政権は目まぐるしく変わり、天智天皇の時、
草薙の剣が取り上げられ、天皇の側に納められました。そのことで、尾張氏は天智天皇に
不満を抱きます。天智天皇の後、その弟の大海人(おおあま)王子が天智天皇の子大友皇子を殺し、
天武天皇になります。壬申の乱です。天武天皇の前名は、なんと「大海人(おおあま)」です。
天智天皇を憎んでいた尾張氏は当然、天武天皇を背後からバックアップし、勝利に導きました。
こうして、一地方部族でしかなかった尾張氏は、天武天皇によって地盤を築きます。
スサノオの八岐大蛇退治で得た「天叢雲(アメノムラクモ)の剣」を日本武尊(ヤマトタケル)が
持って東征し、静岡の焼津で、火責めにあった時、その剣で草をなぎ倒して、無事帰還できたので
「草薙の剣」と呼ぶようになった、などという話しを作ったのでしょう。
一説に「なぎ」は「うなぎ」というように「蛇」にも通じるとか。
?
それから40年後、「古事記・日本書記」が編纂され、尾張氏によって申し立てられた
「草薙の剣」の話が載せられのでした。
?
ところで、源平の合戦で、三種の神器は安徳帝とともに壇ノ浦に沈んだのではという
素朴な疑問は、ホンモノは熱田にあって、天皇の傍らに置く品として「形代(かたしろ)」
が作られていました。それが沈んだのです。では、今宮中にあるのは?
室町時代に伊勢神宮から提供された剣が「形代」として宮中に納められたとのこと。

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