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平成の虚無僧一路の日記

永田洋子の死 

2018年07月08日 外部ブログ記事
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オウムの麻原教祖こと松本智津夫が処刑されたことで、                                      浅間山荘事件の永田洋子のことを思い出さずにはいられない。「永田洋子(ひろこ)」は死刑にならず、獄中で病死した。65歳だった。私より3歳上。昭和42年私が慶応に入った年、永田洋子は共立薬科大学を卒業して、一時 慶応病院の無給研究生だった。その後「ベトナム戦争反対」に端を発して「70年安保闘争」が過激化し、セクト間の抗争も相次いだ。私など、学生服を着て尺八なんぞを持っているものだから、「右翼」として 襲われる対象だった。その後、学生運動は沈静化し、行き場を失った連中が、逃走の過程で 仲間割れし、陰惨な殺戮を行った。永田洋子の命令で「総括=処刑」されたのは12人。なぜ 大の男が 小柄な永田のヒステリーにおとなしく従ったのか、政治思想うんぬんより、追い詰められた人間のエゴ、嫉妬として語られる異様な事件だった。当時「総括=死刑」という言葉が流行語になり、赤塚不二夫の漫画だったか、すぐ「死刑!」というギャグもあった。事件から40年。時折「あの永田洋子が まだ生きているらしい。ぬくぬくと国庫で生かされているのか」などと 話題に上っていたが、20年も前から、脳腫瘍を煩い、激しい頭痛に苦しみ、目も見えなくなり、最近は、言葉もままならず、寝たきりの状態が続いていたという。殺された者の怨念か、清盛のように 業火に焼かれる苦しみを味わって果てたか とさえ思えてくる。それについて、瀬戸内寂聴が、永田洋子と手紙を取り交わしており(その数は300通にも上る)、次のように述べている。「よくもあれだけ殺して平気で生きられる」という声も、私(寂聴)はよく聞く。そんな時、私は『汝の罪なき者、石をもて彼女を撃て』と言ったキリストの言葉を思い出さずにはいられない」と。

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