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シニアの放課後

<心に成功の炎を>66 

2018年06月22日 ナビトモブログ記事
テーマ:中村天風<心に成功の炎を>

 豊臣秀吉も 草履取りで一生終わったら もっと長生きができたろうに まこと慎むべきものは酒と色であります。
 自分のことを言うようでおかしいが 私なんかがね だらしのない気持ちをもっていたら とうに死んじゃってます。幸か不幸か 幼少のおりからばかに女にもてるんだよ。いまだにもててる。けれど けっして私は 満を持して放たざる状態に常におります。かりそめにも 私の一人の命は 私一個のものだが 広い世の中のために生きてると思って けっして限界を超えないから 今日まで元気いっぱいに生きていかれる。よけいなことがけれども。
 この家光将軍が35歳までの乱行というものは 将軍だから何をしてもなんともいわれなかったかも知れないが 今の世の中で もしもああいう人間がいたら たちまちボイコットを受けちまう。天下を治める公方将軍ともあるべき者が 毎晩 辻斬りに出かけるんですからね。
 また 類を持って友をなすとかいって この気性の荒い家光によく似た家来が一人いた。阿部豊後守 これがまた言え光に負けず劣らずの気性の荒い人で 二人で申し合わせて 夜な夜な辻斬りに出かけるんですから これは手がつけられない。
 与力 同心がつかまえて調べると 阿部豊後守がさっとそこへあらわれて<控えろ お紋所を拝め>。いわれて同心が紋所を見ると はっきり見ると目がつぶれるといわれたぐらいの葵の紋。<へへーっ>。これで無罪放免。
 何がさて かような乱行のところへ 山河震わす百獣の王の虎が献上されたんだから 大喜びの家光。毎日 庭先に檻に入った虎を引き出させておいて<さ 全国からなるべく荒い犬を連れてこい。虎にも負けないくらいの犬を連れてこい>といって 毎日毎日 この荒い犬を投げ込んで 虎がこれに躍りかかって 食い殺すのを興ありげに見て喜んでいたんですから 少し変態質ですなあ。
 五日 十日同じことをやってるうちに 人間だれしも どんな珍しいことでも 毎日毎日同じ状態だと飽きがくる。はて 何か他に趣向の変わったことがないかしら。何もすることがない人間 今みたいにテレビやラジオがあるならともかく 何にもないね。
 一日じゅう用のないときのほうが多い将軍です。
 <うん 人間をひとつ入れてみよう。しかし 待てよ。普通の人間を入れたら これはいっぺんで虎に食われてしまう。虎に食われないほどの人間を入れなければ興味もうすいが はて だれにしよう。旗本の中にそうとう荒武者もいるが 虎の檻の中に入れたら ちとおぼつかない。はて だれにしようか>と 考えたすえに はたと思い当たった。
 <うん 柳生但馬守を入れてみよう>
 そう思うのも無理はありません。天下をとった家光にも 柳生但馬守にだけは 稽古のときに遠慮なく頭をひっぱたかれる。何かことがあったら腹いせしたいと思うのも これは無理がない。そこで 虎の檻の中に但馬守をと考えたのも これは当然でしょう。
 <但馬守に入れといったら辞退するかな。辞退しないで入っても 但馬守なら剣一本取って禄一万石。まさか虎には食われまい。これを入れてみよう>
 我ながら自分の思いつきに にこっとほほえみながら
 <しかし待てよ。但馬を一人で入れて 時間がすぐそのまま去ってはおもしろくない。もう一人 だれか入れるものはないかな。大久保彦左衛門 だめだ ありゃ 若いときには武術学問自在において 巧妙手柄数限りなく立てたかもしれないが あいつ 今は頑固おやじになって 虎にいかに意見したところで 虎には聞こえまい。もっと格好なものがいないかな>
 また とくと考えたすえ 家光の頭の中にポーッと浮かび上がったのが沢庵禅師であります。
 <品川東海寺住職沢庵。神君家康公が『意見番に大久保彦左 人の道は沢庵に救われよ』という遺言ではあったけれども みどもにはあの沢庵が本当に偉い人間か 偉くない人間かわからん。ひとつ今度 虎の折に入れて試してみよう>
 人間というものは自分で自分のえらさがわからないから だれでもが自惚れが手伝って 人を見るときに自分がえらいと思ってみている。
 ましていわんや 家光なんていうのは えらかないけれども ああいう身柄の生まれたから えらく思われているだけなんだ。えらく思われているものがえらいと思いこんじゃってるところがえらくないところがあるんだけど そいつは考えない。
 縁あって将軍になったからこそ みんなが土下座して敬い奉るんで 家光はべらぼうにえらいと思っちゃった。
 自分自身がえらいと思って沢庵を見ると 沢庵はちっともえらく見えない。なぜかというと 沢庵ぐらいのできた人間になると えらがった様子をしませんもん。今の世の中の人々は えらい人間がえらいふりしないと えらいと思わない。本当のえらい人間は べつに気取りもしなきゃ ふりもしない。そのまんまであります。本当のえらい人間は表と裏がないのであります。
 沢庵禅師という人はそういう人なんです。将軍であろうと 家来であろうと そこになんらの差別はつけない。それが家光にはわからない。本当にえらいからそうなんだということがわからない。
 あるとき こういうことがあった。毎日 八つ時(午後2時頃)になると御殿の中でお茶を飲む。あなた方も 家におられると お三時といって お茶を召し上がるときがあるでしょう。さっきも言ったとおり テレビもなければ ラジオもない当時です。茶をすすりながら 近習 家来を集めて世の中のうわさを聞くのが 将軍の毎日の楽しみの日課だった。

―続く―



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