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<心に成功の炎を>31 

2018年05月12日 ナビトモブログ記事
テーマ:中村天風<心に成功の炎を>

 本能階級の人は ただ肉体を直接的に感覚できるもんだから それを自分だと思うだけのこと。それから理性階級の人は 感覚的に感じる肉体よりは 観念的に考えられる精神生命のほうが もっと広範囲に働けるから それが人間だろうと こういうふうに思ってる。
肉体を自分だと思う考え方は 本当のことをいうと 野蛮蒙昧な人間が まだ何も考えられない時代に自分を考えた自己意識なんだぜ。仮にも 現代の文化民族が持つべからざる自己意識なんだ。
ところが 情けないほど 現代の人間の中にも ぺラぺラ ペラペラ理屈を言う割りに 今なお肉体を自分だと思ってると言うような 遅れた考え方で人間と言うものを扱ってる人が多くない? いわゆる本能階級者が巷にあふれてるわ。
次の理性階級 心が人間だと思ってる人は これは真理にうえからいうと もちろん正当じゃないけれども 心が主体になって 肉体が従体になっている。本能階級のほうは 肉体が主体になって 心が従体になって ただ考え方があべこべになっているだけなんだ。
そして 理性階級のほうが何か文化民族の新しい自覚をもつ人間のように考えるかもしれないけれども そういう考え方をするとね 心の中に計り知れざるひとつの大きなトラブルが生じるんだ。
それは何かというと 精神至上主義という気持が心の中におこってくる。一にも心 二にも心。そうなると今度は 理性を発達せしめて 知識の力で自分というものを統御していこうという間違った方面へと その考え方がいっちまうおそれがあるんですよ。
その結果どうなるかというと 肉体を あるかないかのごとくおろそかにするのみならず 理性というものには限界点がありますから 理性でどうにも考えきれない大きな問題に突き当たると それでいっぺんにおしまいなんだ。
そして 考えられない問題に対して考えようとする努力は その人間を精神疲労に陥れて その結果 ノイローゼだとか神経衰弱にかかっちまう こういうわけなんだ。
だから どっちが気楽に生きられるかといえば 野蛮人のほうが気楽に生きられるわね。考えようたって 理性がないんだから なまじ理性があると もうすでに2千年の昔の孔子が言ったとおり <いよいよ極めていよいよ苦しみ いよいよ知り得ていよいよ迷う>という状態になっちまうんだ。
だから さっきも言ったとおり 理性階級の人は ペラペラしゃべっていても 少しもそこに 自己の人生を完全に統御する信念はありゃしません。それで ちょいとでも体がだるくなろうもんなら もうてんで哀れ惨憺 これが万物の霊長かいと思うほど きなきな くよくよ そりゃもうね 笑い顔ひとつさえ満足にできないような哀れな状態になっちまうんだ。そうすると 寿命もこないのにくたばっちまうという くだらない結果がくる。
 
 それじゃあ 人間の命の正体は難だろう。
 自分の肉体も心も生きる道具。じゃあ本当の自分っていったい何だろうということに突き当たりますわね。
 まず それを正しく理解しようとするのには 第一に 命とは何かということを考えなきゃだめなんですよ。命を考えないで自分というものを考えるから それが肉体になっちまう。
 この考え方を深めていくと 人間というものの正体が自然にわかります。人によって 遅速の違いはあれど 命を立体的に掘下げていくと 人間の正体 自我の本質がわかってくる。
 そこで考えよう。命とは何だろう。
 これがまたね 簡単な質問のようで たいていの人は すぐに覚えられないんですよ。試みに これから言いますから 考えてごらん。<命とは何?>。大方はこの質問に対して ハトが豆鉄砲食ったような気持になっちまうだろ。
 簡単なもんだよ。命というのは こうして生きてる現実の状態に対する代名詞なんだ。生きてないものは 命があるとはいいません。したがって 生きてないものは<命>という言葉は用いません。現象界に活動現象をあらわして生きている現実に対する代名詞なんです。
 そこで 肉体が自分でないというのはここなんだ。肉体が命の現実の生まれどころでないからなんです。わかる?
 前にも言ったように 水道の蛇口をひねると水が出る。蛇口から水が出たから 蛇口が水を沸かすという人はいないでしょう。どんなあわて者だって 蛇口から水が湧いて出るとは思わないだろう。肉体もまたしかり 命をつくってくれてんじゃないの。
 それじゃあ肉体は何だというと 命の働きがあらわれてるところなんだ。働きがあらわれてるところと つまり活動現象の表現の場所と それを製造してる場所 あるいは生み出してる場所とは違うんだぜ。
 命 どうしてできた? 男の人も女の人も 自分が人間の世界にこうして人間としてでてきた原因的な消息から ずうっと考えてみればわかるんだよ。
 およそ この世にありとしあるすべての生物は みんなこの宇宙エネルギーの中にある生物となるべき要素が漂っていると こう思いなさい。
 世の人々は これが見えないもんだから ないと思ってる。人間の考え方は不自由なもんで 目が見 耳が聞かなきゃ それはないと思ってるんだけれども ただ 空気と電気だけは この節の人も見なくてもあるように思うというような 習慣からきている観念でもって是認しているが それをもっと一歩深く突っこんでごらん。
 こおうやって あなた方がつつましやかにお話を聞いてる。ここの空気の中には 電波が漂っている。今年(昭和42年当時)あたりになると 二百四十何種類になってますそうですね。しかし 見た者はないでしょう。また 見るべき設備はないもん。
 けど 確かにある証拠には 精巧なラジオを持ってきて ダイヤルを回せば そのチャンネルがちゃんと会いさえすれば <あ これは今 オーストラリアのが聞こえてる。あ 今 英国のが聞こえる>と 必ずキャッチすることができるじゃないですか。キャッチすることができるのは 電波が漂ってる証拠だろう。
 それと同じ理由で <染め出だし人はいないけれど春来れば柳は緑花は紅>という事実を考えてごらん。庭に誰も種まかなくたって 今まで霜 雪 霰に閉じ込められていた泥の中から かわいらしい草花の双葉が芽を出すじゃないか。アブが飛び出す 蜂が飛ぶ チョウチョウが飛ぶ 春になるといろんなものが飛んでくるね。だが 春が来ようが 夏が来ようが 宇宙エネルギーの中に そうありうるものがなかったら <気>がなかったら そんなものは出ちゃこないだろう。
 さて 虫やバッタは別問題にして 人間で考えてみよう。

ー続くー



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