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<心に成功の炎を>29 

2018年05月10日 ナビトモブログ記事
テーマ:中村天風<心に成功の炎を>

 それまで私は 肉体が自分だと思っていた。いわゆるこの肉体が人間というものの全体を代表してる存在だと思ってた。
 ところが わかってみたら 違ってることに気づいたんです。わかったというのは 厳格な本質というものがわかったからなんだ。本質がわかると 今まで自分だと思ってた肉体というものが自分でないことがわかるんだ。
 もっとはっきりいうと 肉体は自己そのものではなく 自己の命のものなんです。
 もっとわかりやすくいうと それはちょうど そうだ あなた方が持ってるそのハンドバッグや あるいは履いてる靴や 着てる洋服や 締めてるネクタイは あなた方の肉体じゃないね。どんなあわて者でも ハンドバッグを自分のだと思ったり 履いてる靴を肉体だと思う人はいないね。それは肉体が生活するための一つの道具なんだ。
 それと同じ理由で 肉体もだ 自分と思うのは間違いで 本当の自分から考えると それは自分の命の付属物なんです。
 聞いてしまえば わけなくわかることを 私は えらそうに米国の医学博士だなんてね。自惚れて そして考えてることは まるで野蛮人と五十歩百歩よ。体が自分だと思っていたんだ。自分のものを自分のものと思うならいいけど 自分のものでないものを自分のものだと思うものは泥棒だね これは。
 しかし 現代の人間は 気の毒なくらい 物質文化の時代に生きてるだけに それだけに こういう階級の高い哲学的な消息というものは かんで含めて聞かせても それが自分の心に<ああ そうか>と受けとれませんよ。いつも私はこの話をしながら考えているんだけれども 昭和3年から毎年この話をしてて 今の人間よりも戦争中の人間の方がよくわかってくれたんです。
 そこに座っている井上さんなんかわね 戦争に行く前にこの話を聞かれて 
 <もう大丈夫です 先生 もう大丈夫だ。もう私は ふたたび先生にお目にかかれないと思って お暇乞いに来たんだが わかりました>とお別れの挨拶に来てくれた。
 そのとき私は井上さんに 戦争に行く者には誰にでも必ずいう言葉を言った。
 <切り結ぶ太刀の下こそ地獄なれ 身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ。その意気で行け>
 <わかりました。今この土壇場にきて 何べんか聞いた『我とはなんぞや』がはっきりつかめました>といって 井上さんは戦地に向かったが 何とあの人は 昭和12年の日支事変以来 6回も召集されているんですよ。
 召されるたびごとに 悪戦苦闘して ときによると 十重二十重と敵に囲まれて たった一人になって 出ることも引くこともできないほどの状況になったこともあるんだ。そんなとき 不思議と私の顔が浮かび出たそうですよ。<身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ どうにでもなれ 殺すんなら殺せ。もう生きようとも死のうとも思わない>と。
 そういう場合に 生きよう 助かろう 逃げようなんて思ったら 必ずやられてしまいます。敵に囲まれていて 敵がそこに井上さんが座っているのも知らずに 通りすぎちまったことが何べんあったかわからないそうだ。そして 不思議にいつも助かって帰ってきた。一年志願兵が少佐にまでなるなんてことは そりゃ破天荒なことですよ。
 やっぱりああいう生死の岩頭に立つ運命は 自然と心の中に悟りの光明を輝かすんだと私は思ったけれどもね。しかし 現代の人にはちょっとこれはわからないかもしれないなあ。

                  *
 
 さあ そこでいよいよ本論に入るが そもそも<私とは何だろう>ということを考えるときに この体を自分だと思わないほうがいいんです。
さあ わかんないと思うだろ。おかしいな 体を自分だと思わなかったら 何が自分だと思う人は 失礼ながら 人間というものを本当に考える頭がない人なんだ。
 この体を自分だと思って人生に生きると そらもう 人が気がつかない恐ろしい影響が余儀なく我々の命のうえに働きかける。それは何だというと 肉体を自分だと思って生きていくと 生きる力が弱るんですよ。それはね 簡単なことですぐ証明されるんだけれども あなた方は 証明されることをいつでも飛び越しちゃって このすぐわかることをわからずに生きてるんだ。
 これから私が言うことがわかると ああ 先生が戦争に行く者に必ず<身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ>といった歌をやったのはそこだな ということがわかります。
 たとえば 女の人から先にいこう。芝居を見に行ったと仮定するんだ。いいかい。
 幕があいて 役者が舞台で何かの劇をやっている間に 自分が蚊に食われたとする。でも 舞台に夢中になって じいっと見ているときは 蚊に食われたってなんともねえんだ。芝居が終わってまくがおりたら<ああ かゆい>と気がつく。我にかえるというが 肉体を自分のものだと思ったときの感じがこれなんだ。
 このごろはやたらに誰でもゴルフをやります。昔はあれは貴族の遊戯だったんだ。つまり 運動不足をおぎなうために イギリスで発明された遊戯なんだが ふだんはもう横のものを縦にもしない人間が ゴルフという遊戯だと夢中になって 日曜日なんか <今日は私はツーラウンドやってきた>なんていう人がいるんだよ。それじゃあ それだけ歩く能力があるんなら クラブも持たず ゴルフもしないで もういっぺん歩いてみなと言ったら 歩きゃしませんよ。今度は我にかえってしまう。
 碁打ち 将棋うちがそうね。あんなわずかな盤の上へ お互いに碁打ちなら 白と黒とをかわるがわる並べてる。そうしちゃあ <それ ちょいと待ってもらえねえか><待てないよ これは>なんて けんかしてる人がいる。けれども とにかく長い時間 同じことをやってるんだ。趣味のない人間はあれを見てて どう思う? <ばかばかしい>とけなすだけじゃないか。<白色と黒色の石をお互い並べっこするなら 一時にぶちまけちまえばいいじゃないか。何が死んだんだい 何が関だい 何があたりだい。大笑いさせんない。ほんとうにもう 3時間も4時間も>と こう思うだろうが。それをやってる人間はちっともくたびれやしねえ。ただもうおもしろくて おかしくて。
 けれどもあれが何にもならないことなら しやしませんよ。
 <今日はどうしてました>
 <うちでもって碁を打ってました>
 <相手は?>
 <いやいや 相手はいやしません。一人でやってました>
 そんな人はいやしない。よほど熱心なけいこでもするような場合でないかぎりはね。まだわからない?
 そうだ 夜寝てるときに急にその辺からぼやでもでたとする。そうするとね 男でももてないような荷物こしらえて 女の人はそれを担ぎ出しますぜ。ご当地のご夫人 どうです? 
 間もなく火事も消えたわ。持ち出した荷物を元へ戻さなきゃならないというときに 大の男が2人かかっても持ちあがらない。
 <これ だれがここへ持ってきたんだ>
 <私よ>
 <あんたが持ってきたんなら あんたも手伝いな>
 <私 そのとき どうしたわけか ここまで持ってきちゃったの。でも もうだめよ。 少しも動かないわ>
 それはそうですよ。これなんだ。<身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ>の意味は。
 肉体を考えて 肉体を本位とした人生を生きると 今さっき言ったとおり 命の生きる力が衰えてくる。だから まず何をおいても 第一に肉体を自己と思うような間違いは厳格に訂正しなきゃいけませんよ。
 この前もそういったね。今までおなかが痛かったりなんかすると <ああ 私が痛い>と こう思うんだよ。<私が痛い>という思い方を 今度は天風式にこういうふうに考える。
 おなかが痛いときにだね。第三者の人のおなかが痛いのと同じように <今 おれの命を生かすために使う道具である肉体の腹のところが痛いんだ。私が痛いんじゃない。私が生きるために必要な道具のおなかが痛い>と思えばいいんだよ。
 今までは洋服にほころびができると あなた方自身にほころびができたように思っただろう。ブラウスの背中のところに穴があいたといったら <あ 背中に穴があいちゃった>と思う。そうじゃない。それは着ている洋服に穴があいたんだから 繕えばいい。
 というふうに 客観的に考える余裕をもたなきゃいけないのよ。
<1行空く>

―続くー



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