宗教日記

「生かされている」とは 

2018年04月21日 ナビトモブログ記事
テーマ:宗教

私たちはよく
「生かされている」
という言葉を使うのだが、
その意味をきちんと理解して使っているだろうか。

「生かされている」ということを
もっと正確に言うなら、
「自分で生きているのではなく生かされている」
ということだ。

普段の生活の中では
そのことがなかなか実感できない。
実感できない理由として
「自分」が大きくなり過ぎていることが挙げられる。
大きくなった自分はありとあらゆることを
自分の意志や力で動かしていると勘違いする。
しかし、よくよく考えると、
自分の意志や力で動かしていることなど
ほんの少ししかない。

禅僧内山興正氏は
そのことをたとえを使って
わかりやすく表現している。

「私は私の力で生きていると思いがちだが、
実はそうではない。私とは私のアタマだ。
アタマが主人で、
アタマで思う通りに生きているのだと
思いがちだがそうではない。

アタマのいうことを比較的よく聞くのは、
口と手足ぐらいなもので、いま、
だいたい私は、アタマの思うように喋っている。
このコップの水を飲もうと思えば、
手がこうして口の所へもってくる。
しかし、もし今晩ご馳走がたくさん出たとする。
普段あまり旨いものは食べられないから、
この機会だとばかりに食べる。
うかうかと食べすぎて胸が悪くなるとする。
そこでアタマが、胃袋よ、早く消化しろと命じても、
胃袋はいうことを聞いてくれるかどうか。

また、夜になれば眠たくなる。
この場合もし呼吸することが
アタマの命令で行われるとすれば、
アタマが眠ってしまったあとの呼吸はどうなるか。
眠っているあいだにオレの呼吸がとまりゃしないか
などと心配していいはずだが、
事実としてそんな心配するバカはいません。

あるいは私はもういい年だから駄目ですが、
皆さんならよくあることでしょう。
人知れず好きだと思っている人と、
道でバッタリ出会ったりすると、
もう口がきけなくなる。心臓がドキドキする。
顔がほてってくる。

そんなとき心臓よ、
この人に知られたら恥ずかしいから
ドキドキするな、もっと静かにしろ、
などと命じても聞いてくれはしません。

普段は思い通りになると思っている
この自分自身でさえ、
実は自分の思い通りにはならないのです。
自分の力で生きているつもりでいても、
早い話が、地球がなければ、太陽がなければ、
空気がなければ、水がなければ、生きていけない。
生きていけないどころか、
自分の存在さえ、ありえない。」
         (「正法源蔵 生死を味わう」)



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